おはようごございます。
新年が明けて、悲しいニュースが飛び込んで来ました。大阪市立桜宮高校2年生のバスケット部キャプテンの男子生徒が、自殺されました。彼のご冥福を心よりお祈りします。私も学習塾をしていましたし、子供の教育に関与してきましたので、著作である「生き方そして働き方」に学生期における子供の教育についてどうあるべきか書きました。(別府総合研究所のHPで、無料で読めます。)
また、 バスケット部の顧問の先生および校長先生や管理職の方(大阪市長と教育委員会)は、今後、全国でこのような事件が起きないように、重い荷物を背負い、真剣にこの事件と向き合って、解決策を出してほしいと思っています。
まず、体罰などという言葉があること自体がおかしいのです。何も罪がない人に、体罰という罰を行える権利はだれにもありません。教育指導上、行ったとしら、それは三流の指導方法といえます。また、校長をはじめ、このような暴力行為が、常習的にあったことを認識していながら、まさに顧問の教師に、是正指導をできない人たちも三流の教育者ではないでしょうか。
なぜ三流かを説明しましょう。モティベーション分野の世界的権威であるSMI創立者ポールJ・マイヤー氏は、モティベーションをあげるのに、三つの方法を人類はとってきたと言っています。スポーツの分野ではモティベーションを当たり前のように使うようになりましたが、モティベーションとは、目標を達成しようとする、動機であり、やる気であるわけです。
人類が使った最初のモティベーションは、恐怖によるモティベーションです。支配者は、自分に背くものを殺し、民衆に恐怖を植え付けて、支配したのです。そこからは恨みしかでてきません。たとえばスポーツの監督が、竹刀を持って指導しているのは、時代錯誤です。今回の事件の顧問の先生はこの恐怖によるモティベーションを使っていたから、三流です。セクハラやパワハラも、恐怖によるモティベーションなのです。絶対に使ってはいけません。
次が、報酬によるモティベーションです。目標が達成したら、報奨金などを渡すことですが、これは半永久的に使えませんし、それが植え付けられると、報酬がないと不平不満が発生します。これを使っている指導方法は二流なのです。ですから、一番目と二番目は、健全なモティベーションの育成方法とはいえません。二番目はある程度、必要なときもあります。
一流の監督・指導者は、パーソナルモティベーションを使います。学生時代、マラソンで有名な現在の瀬古監督を育てた中村清先生にお世話になりましたが、名伯楽と言われた中村清先生や、シドニー五輪金メダリスト高橋尚子さんを育てた小出監督などが一流と言われる由縁は、選手に自分で夢や目標をもたせ、やる気を引き出し、練習が楽しくなる、自主的に練習できるようになるように指導したからです。見渡せば、スポーツ界には多くのそのような指導者がおられます。
スポーツでも勉強でも、あるいは社会人になって仕事に打ち込むのも、大きな自分の夢や目標があるから頑張れるのです。自分がこうなりたい、こうしたいという潜在的な動機付けこそ人々を目標の達成へと駆り立ててくれるのです。それをうまく引き出してあげるのが、指導者や管理者なのです。
この顧問の先生は、自分の指導方法にマヒし、自分をおさえられない感情の持ち主になってしまっていたのでしょう。それを指導・是正するのが、教育委員会や校長先生たちの役割であるのに、事なかれ主義で、ごまかそうとします。体罰というやってはいけない暴力行為で、ひとりのいのちがうしなわれたのです。この事件やいじめと、日本人すべてが向き合うべきです。
また、重大な過失は、罪のないひとに罰を科したことです。罪があるとしたら、亡くなった生徒さんではなく、先生たちではないでしょうか。私達のこころは毎日毎日、埃をかぶり、シミや垢にまみれていますのでいつも祈って浄めないと、罪を犯すのです。ここで見過ごしたら、罪になります。
そのような罪から逃れるために、私は朝のお勤めで、仏教の懺悔(さんげ)文を毎日読み、いのります。(中野東禅先生の口語文です。)多くの指導者や経営者が行っています。
懺悔(さんげ)
「われ、はからずもとがあるは、みな貧(とん)・じん・痴(ち)あるによる。身と心とに汚れあり、いまさんげして浄めをこう。」
四弘誓願(しぐせいがん)
「あいともに、救いの舟に乗りあわん。
身と心、すべてのなやみ消したまえ。
おしえを聞き、正しき道を踏みゆかん。
清き世を、ここにつくりて守りたまえ。」
南無釈迦牟尼仏
懺悔文は、むさぼり、いかり、無知から、人を傷つけたりしています。体も心もけがれています。どうぞおわびし、反省しますので、私の体、口、意識をきよめてくださいという意味です。そして四弘誓願で、一緒に救いの舟にのり、すべての悩みをけしていただき、正しい道を歩み、清い世をつくって、私たちを守ってくださいと祈るのです。
キリスト教のお祈りは
「天にましますわれらの父よ、願わくばみ名を崇めさせたまえ、御国をきたらせたまえ、御心の天になるごとく地にもならせたまえ、我らの日用の糧を今日もお与えください。我らに罪を犯すものを我らが許すが如く、我らの罪を許したまえ、我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ。国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」と言います。キリスト教も懺悔しますが、ざんげと読みます。
あなたのいのちと死を、私たち大人は決して無駄にしません。安らかに天国でお眠りください。心よりあなたのご冥福をお祈りします。
上に立つ者こそ、いつも謙虚に、反省し、祈れば、良き指導者、良き監督者になれるのです。
最後に私の好きな聖書のことばより
「いつも喜んでいなさい。
たえず祈りなさい。
すべてのことに感謝しなさい。」
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