大分県日田市には、全国難読山サミットで第一位と第三位に選ばれた山があります。第一位は一尺八寸山(みおうやま)、第三位は月出山岳(かんとうだけ)であります。まさに古式ゆかしき名前が古代よりつけられているのです。
今日は、この月出山岳(かんとうだけ)の山頂にある二十八宿遥拝所と掘られていた宝塔について、かねてより「宿曜経」を研究してきて、このたび新聞社より取材をお受けしたのでまとめてみました。
正面には、二十八宿遥拝所と掘られていますが、日 南斗、 月 北斗を並列してところから、天台密教の影響を受けていると思われます。「二十八宿」について書いているお経が「宿曜経」と言われ、正式な経名は「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」と言います。
宝塔の正面
弘法大師空海が唐(中国)の恵果大阿闍梨より密教のすべてを灌頂、授かるのです。そして御請来した経典のなかに、この「宿曜経」があり、西暦806年に帰国し、高野山真言密教を興しました。その後、比叡山天台宗では、最澄亡きあと円仁、円珍がそれぞれ唐に渡り、宿曜経を持ちかえり天台密教を大成します。それほど大事な経典だったのでしょう。
さて、この正面に日、南斗は太陽と南斗六星のことで、月 北斗は月と北斗六星のことで、日月星信仰は、天台密教の星神・帰命壇灌頂と言われ、陰陽をも表し、中国の密教の影響を受けています。ではこの天台密教を日田にもたらした方は誰でしょうか。
日田地方には、奈良時代から役行者や行基が訪れ、また英彦山の修験道者もまた頻繁に来ていたようです。しかし、これほどの宝塔の碑文と、門外不出と言われた「宿曜経」をもたらした方は、密教の高僧であろうと推察できます。
調べていきますと、日田地方は江戸時代天領地でしたので寛政12年(1800)年から代官羽倉公から比叡山天台宗の豪潮律師(1749~1835)が招聘され、天領地日田の安泰と御霊の供養、飢餓救済を願って加持祈祷をしたと広瀬淡窓先生(1782~1856)の日記にも書かれています。
ウキペディアによりますと
16歳で比叡山延暦寺に入山。そこで、遍照金剛大阿闍梨、権大僧都法印伝・燈大法師の階位と広海の尊号を受けるほどの高僧となる。
豪潮律師の生涯において目を逸らすことが出来ないのが、戒律と仏塔(宝篋印塔)の建立である。その基盤となるのは生涯の修道となった密教に他ならない。天台宗は元来、開祖の最澄の発願になる大乗戒壇を旨としていて、当時は鑑真が伝えた僧侶の出家戒(具足戒)を伝えてはいなかったが、豪潮律師は父である貫道の悲願であった出家戒を身に具えた聖僧となり、密教に不可欠な三昧耶戒を得るために、自ら長崎に遊び、中国密教を学んで唐密の準提観音を生涯の本尊とし、出家戒を身に具えることができたのである。それゆえ、豪潮律師の密教を理解するには、日本の天台宗が伝える台密(天台密教)と、中国密教が伝える唐密の両面を明らかにする必要がある。」
中国密教をも取り入れた豪潮律師によって、天領日田に「宿曜経」がもたらされたと推測できます。それも月出山岳の宝塔碑文は、宿曜経の精髄が掘られています。「二十八宿遥拝所」と書かれた「遥拝」とは、「遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所」を言います。人々は天空を見上げ、夜空に輝く月と星々に祈りをささげたのです。
拝むべき二十八宿とは、月が白道を通って、一日、一日、泊まる星を言い、その日に生まれたものは、その星からいのちが宿り、本性である性質・性格や能力を与えられるのです。いのちの誕生は天地宇宙の営みです。二十八の宿星もまた御仏であるのです。
宝塔の第二面
「二十八宿」とは「昴宿、畢宿、觜宿、参宿、井宿、鬼宿、柳宿、星宿、張宿、翼宿、軫宿、角宿、亢宿、底宿、 房宿、心宿、尾宿、箕宿、斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿、奎宿、婁宿、胃宿」 と言う名前で実際に天空に存在するのです。奈良のキトラ古墳には、まさに精微な天文図が描かれ、恒星(大きく光輝く星)である宿星を表しています
写真はNHKの特集より「キトラ古墳天井図」
いわゆる星辰信仰は古代よりあったのです。密教によって完成されたと言えるでしょう。
宝塔の第三面
これは「七曜」と「九執」総じて九曜と言って、羅候星、土曜星、水曜星、金曜星、日曜星、火曜星、計都星、月曜星、木曜星が九年ごとに繰り返します。九曜流年法と言って、羅候星は大凶と計都星と火曜星は凶、金曜星は小吉、土曜星と月曜星は中吉、水曜星と日曜星と木曜星は大吉で、吉凶の年を観ていきます。
宝塔の第四面
この宝塔を建立したのが安政四年(1857)で、佐藤久兵衛さんと大谷嘉作さんが願い主と掘っています。二人は月出町の庄屋であったことが判明しています。
では安政四年とはどのような年だったでしょうか。安政二年(1855)安政の大地震、同五年(1858)安政の大獄、同六年(1859)吉田松陰らが処刑、同七年(1860)桜田門外の変で大老井伊直助暗殺。尚、広瀬淡窓先生は安政三年(1856)に亡くなりました。
このように天変地異は起こり、たぶんこの一帯も飢饉が続いたでしょう。そして幕末へと向かう動乱の時代でした。このような時代だったからこそ、日・月・星に祈り、宿曜経に書かれている天空の御仏に国家の安泰と飢餓の救済などを祈願したのでしょう。
庄屋である二人が願い主を明記しているのは、おそらく西国筋郡代(代官)の許可をもらって建立したものと思われます。また月出村の長老(庄屋)であるこの二人が宿曜経のことを知らずしてこのような宝塔の碑文を書くことは困難であるし、豪潮律師の弟子である高僧の指導でつくられたものと思われます。
その方が英彦山の修験道者であったとしても、当時英彦山は、江戸幕府より天台宗修験別格本山に公認されており、天台宗の影響を受けていました。江戸時代は絶頂期でしたし、豪潮律師が英彦山に宝篋印塔を建立しているのを見ると、豪潮律師の密教の教授もあったものと推察できます。
大分県日田市丸の内町 大超寺の宝篋印塔。英彦山、阿蘇、耶馬溪羅漢寺に同様のものがあります。
天領地日田の月出山にある二十八宿遥拝所の宝塔碑文は、全国的にまれであり、貴重なものだと思われます。何よりも、この近郊に高塚地蔵尊を始め、藪(岩井戸)不動尊、そして八竜社など史跡があることを見れば、いかに信仰心の篤い方々が多かったかがうかがえます。有形民俗文化財として保存し、地元の仏教文化、民俗文化を後世まで語り継いでいただきたいものです。