2012年10月31日水曜日

稲盛哲学とアメーバ経営Ⅱ

 おはようございます。
日本の産業を支えてきた中小企業の皆さんこそ、この変化の著しい時代を生き抜いて、国に活力を与えてほしいと節に思っています。まずは基本的に農業のみならず、地産地消であるべきだと思います。決して安易ではないと思いますが、容易に海外進出を考えるのはいかがなものかなと思ています。日本国内・地域の供給と需要をしっかりと安定させ、国際的な都市間競争力をつけるためにも道州制を導入し、地方分権し、活性化することと思います。

石原都知事が、第三極を作るにあたって、増税や原子力の問題という政策は、些細のことと言ったのは、政策は時代の変化に応じて、協議し決めていかなければならないが、国家といういうものは、国の大要があり、理念があり、それは思想によって裏打ちされてなければいくら政策が一致しても、国家は成り立たない。たとえば今の中国は、毛沢東の共産主義思想によって国家をなしています。いくら資本主義的政策を取り入れようが、国家理念は共産主義であることを進出した企業経営者は痛切にしらなければなりません。

国と同様に、企業はいわゆる経営戦略・戦術のまえに、どのような経営理念の旗を掲げているのかが重要なのです。経営理念こそ、国の憲法であるのです。この経営理念は、経営者の考え方、哲学、思想から明文化しているのです。

ですので、稲盛和夫氏の哲学を学ばなければ、次世代の会社作りはできないと思っています。なぜなら稲盛氏は充分すぎるほど実績を作ってきているからです。学ぶにあたって、皆さん一人ひとりが「稲盛和夫の哲学」(PHP)を読んで、熟考していただきたく思っています。

この本のまえがきで、「人生に対する考え方により、人生の結果が大きく変わることを私たちは理解しなくてはなりません。苦労を厭い、人生をおもしろおかしく過ごそうとした人や、世をすね、不平不満をもち、一生を過ごした人と、高い目標をもち、それに向かって明るく前向きに一生懸命努力を重ねてきた人の人生のあいだには、大きな差が生じてしまうのです。どのような考え方をもって人生を歩もうと自由なのですが、その考え方によって人生の様相がまったく異なったものになってしまう。つまり「素晴らしい人生を送る」にはそれにふさわしい考え方があり、それはどのような
ものかということを、私たちは知る必要があると思うのです。」と述べています。

人生を会社に置き換えると会社もそのようになっています。稲盛氏は一貫して善きことを思えば、善きことが起こり、悪しきことをおもえば悪しきことが起こると言っています。これは、誰しも知っているお釈迦様の教えであり、いわゆる因果応報、原因と結果の法則です。考え方という原因が間違っていると、結果は失敗という文字になってしまいます。成功する考え方のみが成功という果実を実らせるのです。これが宇宙の法則であり、お釈迦様やイエス様はこの宇宙の法則を悟った人なのです。

稲盛氏の積極的な考え方の根底には、宇宙は積極的な意思で持って作られ、理路整然と動いているし、この世の森羅万象はあるべくして作られているというお釈迦様やイエス様の智慧から来ていると思います。ですから万物の霊長と言われる人間は、宇宙の進化・発展に寄与するように生命をいただいているのです。ひとりひとりも、父と母を通して尊い「いのち」を授かり、その一生を宇宙と地球のために捧げる生き方と思います。

我という個人は、おおやけのものであり、人間は一人では決して生きられません。ひとりから夫婦となり子供ができ、家庭という最小単位の組織が出来上がります。ここで親としての考え方が正しく、積極的でないと子供に教育などできるはずがありません。

そして地域社会があり、そこで生産や商行為をして生計をたてるための会社ができてくるのです。稲盛氏が企業経営の前提で、「動機善なりや私心なかりしか」と厳しく言っているのは、動機が善なものでなければ成功しない宇宙の法則を知っているからこそ、次世代の経営者に、私心という欲望からでたものは失敗するよと言っているのです。すべては世のため、人のためになるという利他行でなければ結局は成功しないのです。金儲けから出たものは金儲けで終わる。

私は「動機善なりや私心なかりしか」に「志(こころざし)ありや」を付け加えています。









2012年10月30日火曜日

稲盛哲学とアメーバ経営Ⅰ

 おはようございます。
巷では、石原慎太郎さんが東京都知事を辞任し、国政での第3極を作り、国家運営の弊害になっている中央集権的官僚支配を打破するという話が飛び交っています。行く末はともかくとして、時代はいつでも諸行無常で、変化こそが進歩への助走であることは周知のとおりです。

今石原慎太郎さんたちが言われていることを、20年前から言っていた経営者がいました。その方は、京セラの創業者であり、全国の経営者5000人余の塾生を擁している盛和塾塾長の稲盛和夫氏です。ニュースを見ていて、14年前に読んだ稲盛和夫氏の「日本への直言」(PHP)を思い出し、今こそ、第2電電の設立や日本航空の再建を成し遂げた稲盛氏について、その哲学と経営のあり方について一人でも多くの方に語らなければならないと思いました。

経営者あるいはビジネスマンの全員が業績を上げ、社会に貢献したいと思っているからこそ、稲盛氏の考え方、生き方そして経営(仕事)や働き方を吸収して、会社を盛り上げたいと日夜頑張っている方が数千万いると思われます。それに引き換え、この国の役人や電力会社に代表される独占企業の経営者は、国民の苦しみの上にあぐらをかいているとしか思えない現状です。

稲盛氏が京セラの創業して、世界的企業にしていくいきさつについては、「ガキの自叙伝」や「敬天愛人」などを読んでいただきたいと思います。また哲学や経営についての書物も多数出版されていますので、経営に携わる方はほとんどを読むべきだと思います。

稲盛氏は、臨済宗妙心寺派という禅宗のお寺で得度されています。得度というのは、仏教の始祖であるお釈迦様の教えを受け入れ、その教えを守り生きることです。並大抵の決意ではできないと思います。しかし稲盛氏は、京セラを創業した20代後半の頃から、宗教書や哲学書を枕元において、読みながら寝込んだそうです。読まなければ生きていけないくらい、人生とは経営とは、そして従業員のことを真剣に考えていたからです。

稲盛哲学の根幹となるものは、仏教ですが、稲盛氏は、キリスト教やジェームズアレンそして中国の儒学などにも精通して、その哲学・思想は世界を救う、地球市民としての考え方を持っているのです。この哲学を経営の原点12ヶ条や京セラフィロソフィに具体的に提示しているのですが、経営手法はアメーバ経営という最少単位でのバランスシートに基づいた生産性をあげていく方法なのです。

つまり経営は、四輪駆動の自動車のように、経営理念(哲学・思想)という前輪と、経営手法であるアメーバ経営という後輪が同時に動かなければ成功しません。経営学者がどんなことを言おうと実践し、成果を出さない限り、絵に描いた餅であり、経営に失敗すると何百、何千、何万人という人達を不幸にするのです。

石原慎太郎さんが今の政府には、バランスシートがないと言われ、東京都では就任当時からバランスシートを取り入れて、東京都の財政の改善に努めたそうです。家庭も会社も国も同じで、バランスシートのないものは滅亡します。日本株式会社が稲盛哲学とアメーバ経営を取り入れる時が来ています。(東大出の官僚のみなさん、ぜひ稲盛氏の書籍を読んで下さいね。)下記の写真は今年、東京国際仏教塾に行ったときに、東大の赤門前で撮った小生の写真です。


次回は、稲盛哲学の神髄について迫りたいと思います。



2012年10月29日月曜日

礼儀作法の基本である挨拶


 おはようございます。10月もあと3日で、11月になりますね。九州も朝晩がすっかり寒くなってきました。今朝は霧が深く、いよいよ晩秋を迎え、日田市では天領まつり・千年あかりが開催されます。また菊池寛氏の「恩讐の彼方に」のモデルになった耶馬渓が紅葉のピークとなります。特に深耶馬渓をおすすめします。日田市や耶馬渓では7月の北部九州災害で甚大な被害を蒙り、復興へ向けて住民の皆さんも頑張っていますので、大自然や祭りが癒してくださることは感謝なことです。

ところで、昨日、天皇皇后両陛下をお迎えしての、第146回天皇賞レースがありました。近代競馬150周年事業の一環であり、東日本大震災の被災地復興を願って東日本伝統馬事芸能として福島県の「相馬野馬追」が披露されました。

優勝したのは、エインシンフラッシュで、騎手はイタリア人のデムーロさんです。彼はレース直後、馬をおり、膝まづいて、両陛下に深々とお辞儀をしたのです。皆さんも見たでしょう。このような紳士的行為は日ごろから身についていないとなかなかできません。今の日本人が失くしている礼儀作法だと感心しました。

禅道場へ行きますと、堂内での歩き方から座り方、食事の作り方、食事のとり方など厳しく教授を受けます、道元さんは、典座教訓赴粥飯法で禅における礼儀作法をことこまかに書き表しています。それは日常の行為そのものが禅の修行であるからです。この禅から、茶道、華道、剣道といわれる「道」が確立したのです。

戦後65年以上経ち、日本人いや人間がもたなければいけない礼儀作法が失われ、いじめなどに現れているように人の痛みを感じないほど、子供たちのこころも疲弊しています。こころを育てるのも、しっかりと朝から家庭のなかで「おはようございます」とあいさつすることではないでしょうか。

欧米や中近東そして東南アジアでもキリスト教やイスラム教そして仏教への信仰がありますので、決まった日時に教会や寺院に集まり、神仏に礼拝し、お祈りを捧げるのです。このような国や地域社会ではあいさつなどが身についています。

日本人こそもっとも礼儀や作法を重んじる国民ですから、まずは家庭や会社の中から、「おはようございます」「ただいま」「おやすみなさい」などとあいさつをする習慣を呼び戻さなければ、人間が疎外されたヒトになってしまいます。仕事柄、いろんな会社にお伺いしますが、社員のみなさん、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」などと挨拶をし一礼ができている会社は、業績が伸びているし、景気に左右されていません。

お近くの神社仏閣へ、子供さんやお孫さんと一緒に行って、神仏に向かって手を合わせお辞儀をし拝むことを自らがすることが大事です。一年に一回、正月元旦のみ、わずかなお賽銭をあげて自分の願いごとをするのではなく、少なくとも月に一回ぐらいはお墓参りなど行ってはどうでしょうか。
伸びている会社の社長さんたちは毎日お仏壇や神棚に手を合わせ拝んでいる方が多いのです。宗教心や信仰心とは素朴なものなのです。理屈ではありません。

まずは「あいさつ」を、ご自分から、そしてご家族から始めようではありませんか。

2012年10月26日金曜日

主の教え


 午後3時ごろ、秋空を見上げると、大きな鳥が、羽いっぱいに広げ、旋回していました。トンビかと思いましたが、広げた羽は1m以上ありそうで、鷹か鷲だと思われました。どんどん大きく自由に旋回し、上昇していきました。そして西の太陽に向かって真っすぐに進んでいったのです。

よく世間では、UFOを見たとか、わけのわからないことをいう人たちがいますが、それが事実なら、世界の天文台はとっくの昔に、なんども発見しているはずです。そんな戯言より、この地球上で、大空を自由に羽ばたくことができる鳥という生き物がいることに感動しなければ真理を覚ることはできないでしょう。森羅万象がすべて真理の姿なのです。

この大空を飛ぶ鷲のように、わたしたちも人生を楽しく、のびのびと生きていけるのです。松原泰道老師が、「きょうの杖言葉」(海竜社)のなかに、聖書マタイ伝13・12のイエスキリストがおおぜいの群衆に語った言葉について書いていました。

イエスが群衆にたとえで話すので、弟子が聞くと、「あなたがたは、天の奥義を知ることを許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たないものは持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

松原泰道老師は、「徳ある者には徳が加わり、信仰あるものには信仰が加わる。しかしそれらをもたぬものは自分から失くしてゆく真実を示唆するのです。」と書いています。現代はすべての人に天の奥義を知ることは許されていますが、このマタイ伝の前後の箇所で、現代の私たちに、種まきの喩をキリストは語っているのです。

持っている者はさらに豊かになるとは、「よい地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」ということです。

神学者も仏教者も、この箇所を宗教的な、精神的な説明をされる方が多いのですが、現実の世界のことであり、生活の領域にわたって、このことが真実として存在しているのです。持たない国民は持っているものまで取り上げられる税金(増税と使い道を監視しなければならない)や高い金利。

今の日本人は本当に贅沢な暮らしをし、お金がなければお金をローンで借りる。身分不相応なブランド品を高い金利のローンで買う。美食と言って食い漁る。そのローンの支払いのために働くが、エアコンをつけっぱなし、電気は使い放題で、多額な電気料金を支払う。家計はますます苦しくなる。挙句の果てに犯罪に手を染めるものもいる。目を覚ませ。

日頃から聖書や仏典を読んで、主の教えを悟る人は、決して身分不相応な生活はしません。食事は簡素です。禅道場で精進料理を食べましたが、毎日このような食事をすれば健康で長生きできます。着るものも質素で、身の回りに、無駄なものは持ちません。いつも努力し、寸暇をおしんで勉強している。(そのような人こそ、たまにはご褒美で豪華な食事をすればよい。)

大空を自由に飛ぶことは、つまらぬ見栄や執着をなくすことです。持たないものは、我慢し辛抱しなければなりませんが、同時に一生懸命働いて、少しづつ貯金すると持てるものになることができるのです。本多静六老師は、貧乏のどん底から、四分の一貯金を25歳から実践し、億万長者になったのです。

仏陀やキリストの教えは、生ける私たちに、現実的にも真の豊かさへと導いてくれるのです。

















2012年10月25日木曜日

湯布院にて


昨日は、大分県日田市を出発し、九重町の九酔渓を回り、夢大橋で一息ついて、飯田高原のタデ原湿原にはいり、九重連山の紅葉のパノラマをみました。(この辺りは、阿蘇くじゅう国立公園です。)絶景!絶景!絶景!まさに無限なる大自然の産物です。


長者原にて食事をし、湯布院に向かった。山荘無量塔の藤林さんのご家族に久しぶりに会いに行きました。以前、山荘無量塔のラウンジで、コーヒーを飲みながら、本多静六氏の本で読んでいたら、マスターの藤林晃司氏が、「別府さん、なんで本多先生を知っているの」と聞くので、「あんたこそなんで知っているの」と聞き返すと、湯布院の若手の経営者で、本多静六氏の勉強会をしているとのことでした。

本多静六氏は、日本で初めて林業学を確立し、明治神宮の庭園修復事業や全国の森林殖産事業に尽力した人であります。湯布院も町おこしの第一歩を先生から指導をうけ、森との共生の町づくりが出発したのであります。本多先生は、偉大な学者でありながら、巨億の富を築いた哲人であります。著書に「私の生活流儀」などの3部作が実業之日本社から出版されているので、ぜひ読んでいただきたいと思います。(生涯で370冊余りの著作をのこしました。)

湯布院でのことを思い出しながら、もし本多静六先生と実際お会いたらこう質問してみたいと思い、夢をみました。

静六老師、人生成功の鍵は何でしょうか(先生の風貌は、本に写真が載っていますが、まさに老師なのです。)

「それはの~、わしがドイツに留学していたときに、聖書を読んだんじゃ」

「その聖書の詩篇の最初に次のように書いていた。

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座につかなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

とな~。」

老師、主のおしえとは、何でしょうか

「主のおしえとは、古代からのキリストや仏陀のおしえじゃ」

静六老師が、まるで仏陀の生まれかわりように見えてきた。

そして夢は覚めましたが、この話はわたしには現実なのであります。  別府武志



2012年10月24日水曜日

座禅・瞑想について



おはようございます。
昨日ご紹介した「丸の内はんにゃ会」は、全員女性(たぶんOLのみなさん)ですよ。毎週座禅会があっているようです。九州の知人より座禅・瞑想をどうすればいいのですかとの質問がありましたので、わかりやすい本として中野東禅先生の「心が大きくなる座禅のすすめ」(三笠書房・知的生き方文庫)を皆様にもおすすめします。

各地の禅宗系のお寺にて、日曜座禅会などが開催されていますので、ぜひご参加してみてください。座禅会で座禅の仕方(上記の本を読めばできます。)を学んだなら、毎朝、顔を洗うがごとく、歯を磨くがごとく、わずかな時間でも、習い性にしてほしいと思います。

私は、朝5時半からと夜寝る前に、20~30分ほど座禅します。まずお香(普通のお線香でも充分。毎日香などハーフサイズがあります。)を焚きます。お香は部屋の空気を清浄にしてくれます。おりんを右前におきます。おりんは意識を集中するために使います。自分を意識するために数息観をします。(「ひと~つ、ふた~つ、・・・とう」までを息を吐き出しながら、三回します。)まずはこころを静めるのです。

目をつぶると眠るので、半眼といって、半分開けた状態で、一点に集中します。ときどきキャンドルを使いますが、穴井 優さんとキムさんが作ったSCANDLEです。九州の八女茶を使ったもので、アロマになっています。(HPwww.we-candle.com) 目を集中する、耳を集中するのは、一念一想になることで、湧き上がる雑念、妄念を消すためです。

ヒトは、呼吸をし、水を飲み、食事をし、排泄し、生きているようですが、それは動物が自然にしていることで、人間には座禅し瞑想するように作られているのです。そのことを覚ったのが仏陀であり、キリストなのです。欧米では、クリスチャンの方の数百万人が座禅を取り入れています。そうすることで仏性・霊性を高めていくのです。

中村天風氏は、座禅をして、地の声(鳥の鳴き声、風の通る音など大自然の音)をまず聴きなさい、そして天の声を聴きなさいと言っています。天風先生から学んだ稲盛和夫氏などの多くの経営者やビジネスマンが毎日しているのです。天の声は、あなたの潜在意識の奥深くから聴くことができるようになります。これこそが正常な判断力を養ってくれるのです。

最後に、座禅・瞑想のあとで、お祈りを捧げます。それぞれの宗派の要領でされればよいと思います。ご自分のためだけでなく、他人のためにとりなしの祈りを捧げることが大切です。

東京国際仏教塾 塾生別府武志より







2012年10月23日火曜日

ビジネスマンに求めれている能力について



これまで「こころ」について語ってきましたが、今日は、ビジネスマンに求められる「能力」について書いてみました。
団塊の世代のみならず世代を超えて知られている歌がありますが、そのなかで岩崎宏美さんのヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」の歌詞をなぜか思い出しました。

「さあ眠りなさい 疲れ切った体を投げ出して
青いそのまぶたを 唇でそっとふさぎましょう

さあできるのなら 生まれ変わり
あなたの母になって、私のいのちさえ
差し出して あなたを守りたいのです。

この都会(まち)は戦場だから
男はみんな 傷(きず)を負った戦士

どうぞ 心の痛みをぬぐって
小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて」 山川啓介作詞

現代社会は、傷を負った戦士は男性のみならず、女性も多いのかもしれません。「丸の内はんにゃ会」(会員数約600名、般若心経の写経や座禅などをしている。)というのがあって、今、仏教女子がブームだそうです。曹洞宗の若手の僧侶達が中心になって、朝活禅などがホテルなどで早朝から行われ、ビジネスマンが多数参加しているとのことです。

傷を負った戦士が、心身をリフレッシュできる場がここにあるのかもしれません。ビジネスは、ヒト、モノ、カネ、情報を駆使し、社会の発展と繁栄のための商行為ですが、その行為をやり続けるヒトであるビジネスマン・ウーマンにとっての必要な能力について、

童門冬二氏が「将の器 参謀の器」(青春文庫)で、時代が問うているのは「トップリーダー(将)とブレーン(参謀)の能力だ。二つの時代(戦国時代と幕末時代)が複合するいま、だれもがもつべき要件は、・先見力 ・情報力 ・判断力 ・決断力 ・行動力 ・体力の六つだ。そしてこの六要素をムダなく発揮するには、・グローバルなもののみかた ・ローカルに生きる というグローカリゼイションが必要だ。」と書いています。

これほど、情報を容易に手にできる時代は、かってありません。新聞やテレビなどのマスメディアのみならずインターネットなど駆使すれば世界中から、どの地方のあらゆる情報を詳細につかむことができる情報力を持っています。必要とする情報を探し、よく聴き、よく見て、人々は何を求め、時代はどのような方向に向かっているかを見る先見力こそがビジネスチャンスにつながるのです。

自分の目標や解決のためにその情報や知識が本当に必要なものかを的確に判断する能力、そしてその情報を選択し、取り入れ、活用しようと、強い意思で決定する決断力は成果を大きく左右します。そして目標達成のために果敢に実行する行動力。その行動を支えているのが、何があっても動じない安定したこころとエネルギッシュな強靭な体力であります。

あなたが、どこに住もうと、無限のビジネスチャンスがあり、あなたのビジネスがあなたと地域社会そして国と世界に大きな豊かさをもたらしてくれるのです。皆さんのご活躍を祈りつつ。           別府武志より

 


2012年10月22日月曜日

地球といういのちについて

週末を利用して、熊本の友人と会うために、大分県九重の飯田高原長者原に行った。登山口から見る三俣山の紅葉は、山の木々がつくりだしたこの世界のすべての色がちりばめられ、絶妙のコントラストとバランスで、世界のどの名画もかなうものではないと、時間を忘れ、呆然とたちすくみ、眺めることができました。

この日、私が通っている東京国際仏教塾の同期の塾生である熊本の山口氏とお会いし、キャンピングカーの中で、「仏教とは、信仰とは」と語りあいました。夜中に外に出て、空を見上げると、満天の星空で、天空にすきまもなく星たちがちりばめられていて、まさに地球上の私が、宇宙と一体となった瞬間でした。

九重の長者原にて、昼間は山々の紅葉の息吹を感じ、夜は静寂の中で、天空の星空を見ると、宇宙は生きていて、地球は生きている実感をあじあうことができました。仏教の中に、ご浄土(極楽あるいは天国)という見たこともない世界に行けることを語られていますが、実はこの世、今生きている地球上にこそ、ご浄土があり、天国があると言えます。地獄もまたこの世にあるのです。私たち地球上の生物すべてが、この現実のなかに、天国も地獄もあることを気づかずに生きているのです。

今朝、YOUTUBEで、NASAが地球が奏でる音を発表していましたので、聴きましたが、まさに生きている地球の声であり、おはようと言っているようにもあり、もの悲しくもあり、透き通って、宇宙に静かに響きわたるいのちの声でした。私たちは地球という生きてものに上に住まわせていただいていることを忘れてはなりません。地球は人間の所有物ではないのです

5時半に起床し、座禅をすると内なる私は静寂に浸り、いのちに感謝するのです。少しづつ自然の音が聴こえてき、周りがだんだん明らむ頃、人々の歩く音、飯ごうを準備する音が聞こえてきます。
そして、三俣山の山頂にのぼった太陽は、まさに神々しく、見ることができないほど眩しく燦然とした輝きを放ってきました。まさにいのちの放射です。太陽の光りと熱こそが、地球と私たち生物にいのちを与えてくれるのです。宇宙と地球上のいのちへの感謝こそ、信仰ではないでしょうか。生きとし生けるものすべてに感謝を捧げます。   別府武志より

2012年10月19日金曜日

頑張るビジネスマンの皆さん、週末ですよ。

おはようございます。別府総合研究所の別府武志です。

あなたへ贈る鎮魂歌

「人は怒り、悲しみ、苦しむとき、

こころは、荒れ狂い、蝕まれていく。

愛している人を失くしてとき、

こころはうちひしがれ、悲嘆に暮れる。

欲しいものが手にはいらないとき、

欲しくて、欲しくてたまらない心は、

執着の虜になっている。

嫌いな人といるとき、

その人のしぐさや、ことばを許そうとしない、

妬みと恨みがこころに芽生えてきている。

病にかかり、こころのなかに「不安」という悪魔が

占領してくる。

齢をとり、醜悪な肉体をさらけだしたとき、

生きる希望が失われていく。

こころは弱く、いのちははかないものだ。



しかし、森にはいり、岩のうえに

座って、しずかに鳥のさえずり、鈴虫のこえをきき、

風が林を吹きぬけていく音をきくと、

ざわめいていたこころは森とひとつになり、

いやされ、安らぎに浸る。

こころが自然と宇宙とひとつになった。

もう、苦しみや老いや病や死を

思い悩むことはない。

永遠に生きるこころへとかわる。」

2012年10月18日木曜日

日夜、活躍するビジネスマンへ

おはようございます。別府総合研究所の別府武志です。

「こころ」について書いていますが、知り合いの営業マンが弊社に立ち寄り、話をしてくれました。彼はある大手の訪問販売会社の営業マンだったのですが、そのときの話です。A支店長が在任時はその営業所は全国で販売成績が一位になったそうです。A支店長は、部下を家族のように接し、適切な営業指導なみならず、売れなくて苦しいときに、声をかけて励まし、抱えている問題の解決をしてくれたそうです。その後、人事異動でB支店長にかわってから、一人辞め、二人辞めしていって、その営業所は閉鎖になったそうです。

A支店長とB支店長の違いは何だったのでしょうか。それは、いわゆる人使いのうまさではなく、A支店長は、こころから家族のように接したという本物の人だったのです。B支店長のように自分の都合のいいように、あるいは、実績のために人を使おうとすると、部下は見透かしています。自然にわかるものなのです。だからこそ、会社の大小にかかわらず、経営者や部門管理者は、自己を磨くことをしなければなりせん。心(こころ)を高めなければ、経営(営業)を伸ばすことはできません

盛和塾の稲盛和夫塾長が「利他行」の実践をいいますが、それはいわゆるボランティアのみを言っているのではありません。まずはあなたの家庭のなかで、会社のなかで、つまり日常的に利他行をこころがけ、実践することです。この利他行のこころが、慈悲のこころではないでしょうか。

慈悲のこころとは慈しみのこころであり、思いやりのこころです。自分を愛するように他人を愛するこころです。自分を愛するが他人を愛することができないことほどむなしいものはありません。誰しも自己を大事にします。しかし、自己は一人で生きることはできないです。一人で生活することもできないし、一人で仕事をすることもできません。ご縁によって他人と結びつき、家庭をもち、会社を作っているのです。このご縁に感謝するこころが、今あなたに必要ではありませんか。

戦国時代の武将、上杉謙信は、「上杉家の家法(訓)」を以下のように書いています。

「心に何もなければ、心はいつも広くゆったりとしている。
心に我意をはることが、愛嬌を失うことはない、
心に欲心がなければ、義理をおこない、
心に私心がなければ人を疑わない。
心に驕りがない時は人を敬い、
心に間違いがなければ人を恐れない。
心に邪な考えがなければよい人物を育てられる。
心に貪りがなければ人にへつらうこともない。
心に怒りがなければ言葉は穏やかで、
心にこらえる気持ちがある時は何事も叶う。
心に曇りがなければ心は静かであり、
心に勇気があれば後悔することはない。
心が卑しくなければ人に望むことを好まず、
心に孝行の気持ちがあれば忠節の心もまた厚い。
心に自分を誇る気持ちがなければ、人の善をよく知ることができる。
心に迷いがなければ人を咎めない」 

「男の禅」童門冬二著青春出版社より

上杉謙信こそ、仏教の禅者であり、実践でした。直江兼続など多くの部下を育て、上杉家は滅亡することがありませんでした。童門冬二著「男の禅」をぜひ読んでください。女性も必読の書です。








2012年10月17日水曜日

成功したい経営者、ビジネスマンの方へ

おはようございます。別府総合研究所の別府武志です。

成功という言葉は、こころよい響きがありますね。成功している人を観察していると、共通点があります。それは、「己とは何か」を知っている人たちです。京セラの創業者の稲盛和夫氏やソフトバンクの孫正義社長などの著作を読むと、共通しているのは若いときつまり20代の創業の時から、人生とは何か、「汝自身を知れ」という自己探求していることです。

多くの経営者やビジネスマンにお会いして、「あなたの夢や目標は何ですか」とお聞きすると、皆さん、うれしそうな顔をして、笑顔で夢を語ってくれます。しかし、10年、20年と経ってその人たちを見てみると、夢が実現した人とそうでない人、ましてや破産や倒産した人もおられます。

経営の手法のまえに、その人の持っている己の性質、能力、器量に気づいているかが大きく影響しています。つまり己を知る自己評価をしているかどうかです。稲盛和夫氏は第二電電を創業しましたし、孫社長はアメリカ第3位の通信会社をM&Aしました。孫社長は過去2年間を振り返り、守りに入っていた自分は本当の自分でないと気づいたそうです。自分の使命は、本業であるインターネットや携帯電話事業を通して、世界の人に貢献したいと言っていました。司会者がソーラー事業もしていますねと振ったら、それはあくまでも付随的な事業と答えていました。本業の拡大こそ、企業の成長戦略の要です。

昨今では、規模の大小にかかわらず、企業のM&Aは、マーケットや業績の拡大に欠かせない手法の一つですが、経営者の器量が伴っていなければ、成功はおぼつかないのが実情です。では器量とはなにでしょうか。それは心のうつわであり、裁量であるわけです。

こころのうつわは、生まれたときからもっている天性のものが大きく左右されます。後天性のものもありますが、それには、切磋琢磨し、努力しなければ、うつわの度量は大きくなりません。たとえば戦国時代の上杉謙信、武田信玄、織田信長、徳川家康を見ると、先天的に大将(トップ)としてのうつわを生まれた時から持っています。残念ながら信玄の長子の勝頼にはないことを信玄は見抜いていました。豊臣秀吉はどうでしょうか。かれは、大将ではなく参謀としてのうつわでした。信長の部下の時の、活躍ぶりをみれば一目瞭然です。だから天下を取ったあとは、朝鮮出兵などの禍根を残すことをするのです。

戦国時代をあげましたが、今日の様相も同じです。一国が一企業であり、自分が一国一城のあるじになりたいと思っても、だれでもなれないし、向かないし、それより社長の右腕、左腕で、能力を発揮する、昔でいえば番頭、つまり企業参謀(役職でいえば部長や常務や専務)の役が適している方も多いし、そのような人が会社を支えています。さてあなたは、どちらの器をもっていますか。

「あなたのこころが、あなたの人生を決めているのです。」

2012年10月16日火曜日

こころについて



ビジネスで成功したい方へ



こんにちわ 別府総合研究所の別府武志です


こころについて、
 京都大学の山中教授が、iPS細胞の研究でノーベル受賞が決まった。
                   
今後、難病などの治療に活かせると思います。難病に苦しむ人々のみならず、人類の
  
進歩への朗報だと思います。感謝です。

ところで、心理学も大変、研究されてきているようですが、現実の生活の中で、
          
心の歪みが病気を併発したり、人を傷つけたりしています。

一体こころとは何なのでしょうか。                       
                            
聖書のなかに、「あなたの心を見守れ、いのちの泉はここから湧く」という言葉が  
     
あります。いのちとは生命に関わること、泉はその生命の息吹であるわけですから、
    
こころが作用しているということです。




こころは移ろいやすく、こころは怒りやすく、こころは自分勝手で、時に、暴れ馬に

なったり、時に落ち込んだり、心配したり、いらついたり、悩んだり、

かと思えば、明るく、さわやかになったり、こころは自由気ままに動いているようです。

だから、聖書で、あなたの心を見守れと言うのでしょう。                                                

では心を見守るのは、誰でしょうか。心を持った自分でしかないわけです。

本当の自分、真我と言いますが、心は感情的ですが、真我とはもっと奥深くにある

魂ではないでしょうか。



本当の自分は、こころではなく、真我あるいは魂で、こころを見守り、こころを良き

方向に動かさなくてなりません。

本当の自分が、いつの間にか肉体に支配され、肉体に左右され、こころにほんろう

されているのが現代人ではないでしょうか。こころがいつの間にか、肉体を支配し

悪しき方向へ向かせようとします。こころと肉体は一体なのです。

その心を見守り、統御するには、体を調え、呼吸を調え、心を調える座禅しかあり

ません。



座禅で、奔放なこころを静め、天地宇宙と一体になることによって、自我が無我に          

なり、無心になる。そのときこそ、生命の源から、いのちの活力が与えられるのです。



私たちは、日常の生活の中で、複雑な人間関係、あるいはメディアによる情報で、こころに嫉妬や

妬みという埃や垢が降り積もっています。あるいは豊かな実りを与えてくれる農園というこころに後

ろ向きな考えや投げやりな思いという雑草が生えてきます。



私たちは寝る前や起きた時に当たり前のように、お風呂にはいり、体を洗い、顔を洗い、そして歯

をみがきます。体にはいつも清潔にする習慣が身についています。であるなら、こころにもその習

慣を身に着けさせ、こころを清潔にしなければなりません。



こころに昼間ついた埃や垢をとりはらわなければ、あなたの人生の農園に雑草が生えて   
くるのです。稲を植え、実りの秋を迎えるまでに、何度雑草をとるでしょう。何度も何度も雑草をとるのです。そうして一粒万倍の実りを収穫ができるのです。



こころの掃除は静かに座り、今日、あったことすべてに感謝をささげるのです。

良きことに感謝をするのは当然だけど、悪いことになぜ感謝するのかと言うでしょう。

この世はすべて因果応報なので、悪いことがおきても、悪いことがおきた原因は自分が

作っているのですか、悪いと思うことができることに感謝すれば、その雑草は取り除かれ

てゆくのです。毎日、毎晩、毎朝続けていけばよいです。朝起きたら、今日一日、無事で素晴らしい

いきいきとした日を送れるように祈るのです。


「心こそ心まどわすこころなり 心に心 こころゆるすな」