2013年2月7日木曜日

由布院のようにー地域活性化とはー

 おはようございます。
昨日は、日田市上手町にある地元日田の野菜とこだわりの食材で作った「お母さんのこだわりご飯」を食べられる「SORA」というバイキングレストランで、10人ほどの仲間が集まって、これからの日田とか産業とか言いたい放題、語りあった。

日田市は、山間地農業であるが、山田原でとれる白菜などは、甘みがあり天下一品だし、上津江のわさびやゆずは新鮮なこと、この上ない。「桃栗植えてハワイにいこう」を合言葉に大分県の一村一品運動の原点になった大山町も日田市である。

しかし、近年外在の輸入より、木材価格の下落により、製材業のみならず林業は危機的状況に立たされています。日本のあちらこちらにみられるような停滞感が蔓延していると思われます。商社出身の方は、農業も法人化して、大規模化して、都市圏のどんどん売り込むべきだと話されていました。

地元の人は、小規模農業を活かして日田産のものを丁寧につくり、売るべきだと意見を述べていました。さて相反する意見を集約するのは難しなと思いました。今日は、「日田市の発展を考える会」というグループが桝添要一さんを呼んで、日本経済のゆくえを講演してもらうとのことです。

また日田市教育庁世界遺産推進室の主催で、五味文彦東大名誉教授の「世界遺産としての咸宜園」という講演会もあるので、体はひとつしかないので、こちらに出ようと思っています。さて三隈川にいる「みずの助と、うーたん」はどうするのだろうか。



以前、湯布院に山荘無量塔をつくった藤林晃司さんがくれた「由布院のちいさな奇跡」木谷文弘著(新潮新書)という本を思い出し、読みかえした。

行ってみたい温泉地で、毎年、全国で1番か2番になる湯布院は、別府の奥座敷で戦後はさびしい山村の温泉地であったが、中谷健太郎(亀の井別荘)溝口薫平(由布院玉の湯)という二人の跡継ぎが地元に帰ってから、由布院がかわりはじめるのであります。中身はぜひ読んでください。

ます、地域が変わる時には、カリスマ性を持ったリーダーがいます。次に地域づくりのプランをしっかり地元の人が集まって語りあい、作り上げることです。そして、まちづくりのイベントなどは一過性のものでなく、継続して何十年と行っていくことです。

そうすると、次の世代が育ってくるのです。先日、フォーラムで溝口薫平さんのお嬢さんの桑野和泉さんの話をきいたが、地域づくりの要諦が身についているなと思いました。つまりぶれていないということです。湯布院は、東大で林業学を確立した本多静六先生が、戦後こられて、「由布院温泉発展策」を講演され、それが原点にあるのです。

つまり湯布院は、「静けさと、緑と、空間」を大切にして、地域の活性化を今も続けているのです。それに比べ、日田市は、筑紫哲也さんが「自由の森大学」という、文化を語る、吸収する会を今の市長と作ったが、いつのまにかやめてしまっている。

誰もが心のどこかで、由布院のようになりたいと思っている。しかし由布院は由布院、日田は日田なのである。

日田市が持っている、歴史・教育遺産である咸宜園を通して、文化による地域づくりと、山間地農業を活かした農産物づくり、内地材の育成と活用提案をいかにしていくかが、明日の日田を作っていることだが、それもこれも、地域づくりは人づくりにつきるのであります。だから当研究所は、志塾を通して、こころざしあるものを育成するのであります。

明日から千葉県成田山新勝寺など修行にいきますので、11日までブロクはお休みします。



















2013年2月6日水曜日

團十郎の死とおくり雪ーブツダの教えー

 おはようございます。
江戸歌舞伎を代表する市川團十郎さんが亡くなりました。「心よりご哀悼の意を表します。ご冥福をお祈りします。」 本物がまた一人居なくなった感があります。東京はこれから大雪になるらしいですが、團十郎さんへのおくり雪ではないでしょうか。

8日から東京国際仏教塾の修行に千葉県大佐倉に行きますが、成田山新勝寺に上って、成田家と言われた團十郎さんのご冥福もお祈りしご供養したいと思っています。

亀山公園の寒椿


兄も團十郎さんと同じ66歳であった。同じ年に湯布院の友人は57歳で生涯を閉じた。病床生活は共に壮絶なものがありました。3年前の兄と友人の二人の死によって、今まで意識しなっかた老いとか、死とかを意識し始めました。

昨日、93歳になるお袋に会って成田山新勝寺にお参りに行くと話したら、あんたが巡礼などするとは思いもよらなかったと喜んで笑ってくれました。人は、老いと病と死に、いやおうでも向き合う時がやってきます。うろたえずに、定命(じょうみょう)の尽きるまで精一杯生きていかねればなりません。

「わたしの容色はおとろえはて
見るかげもない。
それは病いの棲み家
やがて亡(ほろ)びの死の淵へいく。
体は穢(けが)れと腐肉(ふにく)のつめもの、
やがて亡びはて死に帰る。」-ダンマパダ法句経146-

作家であり僧である瀬戸内寂聴さんが、「いま、釈迦のことば」(朝日文庫)の中で、

「人は生まれた瞬間から老いと死に向かって歩みだしています。老いは避けがたく、平等にすべての人に訪れ、やがてひとり残らず死の口に呑みこまれていきます。

 それが人間の避け難い宿命なのです。

病気を「病魔」と呼び、人間は嫌いますが、一度死に至る病魔に魅入られ、とりつかれたら、人間はまだそれを完全に防ぎきる技術を持っていません。医学は日進月歩、めざましい発展をしていますが、薬や医術で治しきれない病いで、毎日地球の各地で死んでいます。その他に天災死、事故死、戦災死と、病気以外の事情でも、死はいつも人の背後にしのびよっているのです。

 仏典の中には、お釈迦さまが、若い頃、お城の四つの門から外へ出て町を歩いていたとき、老人と病人と出家者を見て、この世に生老病死の苦があり、それを逃れるには修行をつんだブッダにならなければならないと感じた、という話があります。「四門出遊」というこの有名な話は、日本人ならたいていどこかで聞いたことがあるはずですが、それは常に忘れられ、誰もがのほほんと日常を暮しているのです。

 人の命ははかないものです。
 人の世はままならぬものです。

それでも私たちはこの世の大いなるものの意志で送りだされた以上は、定命つきるまでいきつづけなればなりません。」

と書いていますが、死を見つめるといのちの大切さを痛感し、だからこそ与えられたいのちをいききるのだと決意をあらたにするのです。またこの世の人生のなかで、何をしたいのか、何をするのかを考えるし、それは若いければ若いほうがよいと思う次第です。瀬戸内寂聴さんの「いま、釈迦のことば」(朝日文庫)は手軽に読めますので読んでみてください。びびと感じるものがありますよ。

2013年2月5日火曜日

花にちなんだ詩句ーブツダの教えー

 おはようございます。
日田市の亀山(きざん)公園(日ノ隈公園)に寒椿であろうか、鮮やかに咲いていました。冬の花は春とはまた趣が違い、目にとまります。ところで、日田市は古代、みずうみのなかに、陽がのぼる会所(えそ)宮をあたまに、三つの丘陵地があったそうで、水が引いて日田盆地になったそうです。

日隈、月隈、星隈ですが、古事記に書いてある日の神天照大御神、月の神月読命、星の神須佐皇命にぴったり附合するのです。この会所宮がある日高の丘陵から、金銀錯眼秼紋龍鉄鏡(重要文化財東京国立博物館所蔵)が出土されています。これは中国漢の時代の国王クラスが持つものと言われています。はるかなる古代のロマンがありますよね。

亀山公園の寒椿


昨日、お祝いの席で、お花をいただいているようでしたが、人は花に愛情を託し、結婚式でも、成人式でも、入学式でも、お正月でも花を活けたり、飾ったりして喜びを表現するのです。花々が咲き誇るとき、人の心も晴れやかになります。

お釈迦様は、花にちなんだ詩句を残しています。

「わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう」(45)

「うず高い花を集めて多くのはなかざりをつくるように、人として生まれまた死ぬべきあるならば、多くの善いことをなせ。」(53)        中村 元著「真理のことば」ーダンマパダー

ひとの花とは徳行なのかもしれません。その花は見てたのしませ、香ばしいかおりをはなって喜ばせてくれるのです。世界中に花々を贈ってくださって、大自然と人々に感謝します。

今年もこれから春になると、大分県九重町のくじゅう花公園の花が楽しみです。(昨年の写真より)



ぜひ、見に行きませんか。











2013年2月4日月曜日

市民ランナーの成長ーブツダの教えー

 おはようございます。
昨日は、快晴のなか、素晴らしいレースを見させていただきました。(残念ながらテレビで、)第62回別府大分毎日マラソンで、埼玉県庁職員(定時制高校の主事)である川内優輝選手が2時間8分15秒で優勝しました。彼の出場するレースをよく見させていただますが、マラソン選手としての持久力、ギアチェンジなどのレース展開、いわゆる技術力が成長しているなと思いました。

またもっとも成長しているのは、彼の立ち居振る舞い、挨拶、言葉など、人間性の成長が著しく、昨今の体罰問題など吹き飛ばしてくれるものがありました。市民ランナーが仕事をしながら自分で自分を鼓舞し、毎日毎日練習し、努力し、最強の市民ランナーになったのです。「優勝おめでとう!」

彼は競い合った安川電機の中本健太郎選手をたたえ、「中本選手が積極的にでてくれたので結果が出せた。」「モスクワでも一緒に走りたい」と話し、中本選手も「彼がいてくれたお陰でタイムが出た」とお互いを称賛していました。良きライバルがお互いを成長させてくれます。

別大マラソン史上、歴史に残るレースだったと誰もが納得したと思います。別大マラソンは別府市と大分市の間を、別府湾を望みながら走る風光明媚なコースです。高校時代、ラグビーの県大会の応援に行き、大分市から徒歩で、宿泊先の別府市まで生徒会の仲間と帰ったことを思い出します。

別府湾をお見せできなくて残念ですが、大分県日田市の三隈川風景を添付します。これは海ではなく川です。1日(ブログ)の写真の堤防の上から撮ったものです。さわやかな気分になりますね。





 川口選手も中本選手もきっと賢者になると思います。ブツダはダンマパダ(法句経)で、賢者について次のように語っています。

「真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。賢者の説きたもうた真理を、賢者は常に楽しむ。」(79)

「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。」(80)

「一つの岩の塊(かたま)りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。」(81)

「深い湖が、澄んで清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。」(82)

中村 元著「真理のことば」岩波書店


大学時代にお世話になった瀬古監督の恩師である中村清監督が、いつも道元禅師の「正法眼蔵」を読まれ、お釈迦様の言葉などをお話ししてくれた頃を思い出しながら、別大マラソンを見させていただきました。私自身も中村清監督との出会いがなかったら、仏教を学ぶことはなかったかもしれません。その縁は三年前に六十六歳で他界した兄が作ってくれたものです。本当に感謝します。















2013年2月1日金曜日

スポーツとは何か

 おはようございます。
全日本女子柔道の園田監督が辞意を表明しましたが、大阪市立桜宮高校などスポーツ界における指導という名の暴行事件が横行しています。スポーツ界が形骸化し、指導者が権力と権威を振りかざし運営していく時代は終わるべきだと思います。

多くの選手や保護者など関係者が傷つき、死にまで至らしめている現実を日本国民ひとりひとりが、教育とは、スポーツとは何かを真剣に考えて、次世代に向けてのスポーツ環境を作っていかないと、オリンピック招致運動などする資格のない国になってしまいます。

そのようなことを考えながらウォーキングしていましたら、山紫水明の流れに癒されました。ここでも立禅ができます。

大分県日田市の三隈川



ところで、スポーツライターの玉木正之さんが「スポーツとは何か」(講談社現代新書)に以下のように書いていますのでご紹介します。(ネットより抜粋)

「スポーツの基本は,遊びである。遊びとは<非実用的でそれ自身のために追求される肉体的,精神的な活動>のことである。また,<目的のない活動であり,それ自体のためにあり,仕事の反対語>でもある。遊びとは<あくまでも自由の領域にあるもの>といえる。

遊びは,<自然発生的な遊び>と<組織化された遊び>に分けることができ,後者は<ゲーム>となる。
ゲームは<競争しないゲーム>と<競争するゲーム>に分かれ,後者は<競技コンテスト)>となる。
競技(コンテスト)は,<主に頭を使う競技>と<主に身体を使う競技>に分かれ,後者を<スポーツ>と呼ぶ。以上は,アメリカのスポーツ社会学者アレン・グットマンによる遊びの分類である。また彼は,<まったく知的な技術を欠いたスポーツをイメージすることは困難である>として,スポーツを<遊びの要素の濃い身体的な競技>と,定義している。

スポーツの定義は,国語辞典ならば,<遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素をふくむ身体運動の総称>といった説明でいいのだろう。」

私も小中学校では柔道をしていました。同級生でモスクワでの世界選手権で銀メダルを取った蔵本君がいました。この年のモスクワ五輪は日本はボイコットしたため彼のオリンピック出場はなりませんでしたが、中学のときから強い選手でした。なつかしく思い出されます。

小学校の時は、日田市の咸宜園の横にあった武道場で、年配の先生から親切な指導を受けていましたので、たたかれることもなかったですし、中学校のクラブ活動の柔道部でも暴力的指導の記憶は全くありません。このようなのびのびした環境で、世界に出て行った選手がいることも事実なのです。

今回の事件は、金メダル至上主義が蔓延し、いつの間にか目的がすり替わって行っていると思います。責任は個々の監督だけではなく、スポーツや教育あるいはモティベーションに対する勉強不足であり、これを放置してきた文部科学省にあると言っても過言ではありません。

柔道の確立者嘉納治五郎先生は、「柔道「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄として、単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている。

「精力善用」とは、柔術の「柔よく剛を制す」の柔の理から「心身の力を最も有効に使用する」原理へと発展させた理論を打ち立て、社会生活すべてに於ても、欠くことのできない重要な原理である。

そしてこの原理を実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩と発展に貢献すること、すなわち「自他共栄」をその修行目的としなければならないと説いています。(ネット抜粋)

すでに答えはあったのです。スポーツ監督のみならず、会社の管理者なども、熱血先生や猛烈ビジネスマンと言われる人の特性として、あまりにも熱心のあまり、必要以上に言ってしまったりします。私も若い時は、その経験がありますし、あとで言い過ぎたと反省することが多々ありました。

これを防ぐのが座禅なのです。こころを静める最上の方法は座禅です。嘉納治五郎先生の理念を頭に入れたら、つぎに指導中でも座禅することです。座禅はいつでもどこでもできるのです。皆さんも「心が大きくなる座禅のすすめ」中野東禅著知的生き方文庫(三笠書房)をぜひ読んで座禅してみませんか。いじめや体罰で困っている人は遠慮なくご連絡ください。




2013年1月31日木曜日

成功哲学ーブツダの教えーこころを見守る

 おはようございます。
お釈迦様は、こころについて、何度も何度も述べています。こころは確かに脳で考えていることでありますが、悪いことを考えて、人は他人の物を盗んだり、殺人まで犯すということをします。現実におきていることを見ると、人間の否定的な側面をみてしまいますが、むしろそうでない人たちのほうが圧倒的におおいことは事実であります。健全な人のほうが多いと思うのですが。

私は、就寝前と早朝に、お香をあげ、座禅を組みます。それはこころを静めるためです。私のこころは現実の生活のなかで、外の刺激と考えていることに左右されるからです。座禅は全身の力を抜いて、丹田の呼吸に集中すると、さわやかの気分になるのです。線香を使いますが、空気を清浄にするためです。約20分ほどの時間、座禅します。お釈迦様はこの座禅の姿勢がもっともよいと言われています。

一筋にたちのぼるお香


中村 元先生の「真理のことば」(岩波書店)よりダンマパダ(法句経)35・36より

「心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。
その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。

心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。
英知ある人は心を守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。」

心はうつろいやすく、欲望のおもむくままに、気ままにゆれうごくのです。こころに振り回されてはなりません。こころの手綱をひくものが、本当のおのれの自身、真人なのです。ですから真人を強めるなければならないのですが、これが仏教では、仏性と言っているのです。キリスト教では霊性と言います。

仏性はおのずと備わっているものですが、金剛石(ダイヤモンド)も磨かなれば輝かないのと同じように、こころも磨かなけば、仏性もあらわれてこないのです。聖書に「あなたのこころを見守れ、いのちの泉はここから湧く」とあるように、中村元先生は、「引きずり回せれないように、心を守りなさい。ほんとうの意味の智慧のある人は心を守りなさい。それによって、ほんとうの意味の安楽が実現されるというのです。」と書いています。









2013年1月30日水曜日

成功哲学ーブツダの教えーつとめはげむこと

 おはようございます。
毎日、毎日いろんなニュースが飛び込んできます。資産家夫婦の遺体が発見され、容疑者が逮捕されたとか、日本女子柔道の監督が、暴行暴言で告発されていたとか、ひっきりなしでテレビに流れます。世の中で隠されていた悪しきものは必ず明るみに出ることを物語っています。

昨日に引き続き、中村 元先生の「真理のことば」(岩波書店)より、お釈迦様がお話したなかに、「つとめはげむこと」を書いていますので、じっくり読んでいただきたく思います。

「つとめはげむのは不死の境地である。
怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめはげむ人々は死ぬことが無い。
怠りなまける人々は、死者のごとくである。
このことをはっきりと知って、
つとめはげみをよく知る人々は、
つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。」ーダンマパダ(法句経)21・22ー

この世に生きている時間はかぎられています。そのかぎられているこの世で、自分がなすべき使命で生きている人こそ「不死の境地」なのです。

それにくらべ、なんとなく働き、給料をもらい、ごはんをたべ、排泄をし、呼吸すら意識せず、なすべきこともなく生きているひとは、「死の境涯」にあると言っているのです。老いても健康に留意し、自分のなすべきことをもち、理想の実現のためにいきている人々もたくさんいます。

だから、無目的、無目標で生きている人、いつも怠けている人は、生きているようであるが死んでいるがごとくであると言っているのです。

そうならないように自覚して、理想とする目的や目標の達成のために、つとめはげんでいる人は、その尊い使命が実現されるのです。そして、「聖者たちの境地」を楽しむことができるのです。

ブツダの教えを、「成功哲学」として皆さんにご紹介しているのは、あらゆる成功哲学の本を読んできましたが、成功という真理は、お釈迦様の言葉にあるからです。

生きること、生きていること自体が、終わりなき人生の修行なのです。このように謙虚な心で正しく生きていることが、実はさとりなのです。自然界でも動物界でも、この法則はかわらないのです。


ダンク2歳のときの写真ですが、凛々しいですね。



我が家にダンクという犬(ミニチュアピンシャー)が居ましたが、昨年6歳7か月で悪性リンパ腫でこの世をさりました。ダンクは数十メートル離れていても、誰かを見分ける耳を持っていましたし、見知らぬ人から、この家を守ってくれました。裏に住んでいる警備のお仕事をされている方から、よく働くねと褒められた犬です。ダンク(ドイツ語で感謝と言う意味です)は自分の使命を働き通したのです。感謝します。