おはようございます。
江戸歌舞伎を代表する市川團十郎さんが亡くなりました。「心よりご哀悼の意を表します。ご冥福をお祈りします。」 本物がまた一人居なくなった感があります。東京はこれから大雪になるらしいですが、團十郎さんへのおくり雪ではないでしょうか。
8日から東京国際仏教塾の修行に千葉県大佐倉に行きますが、成田山新勝寺に上って、成田家と言われた團十郎さんのご冥福もお祈りしご供養したいと思っています。
亀山公園の寒椿
兄も團十郎さんと同じ66歳であった。同じ年に湯布院の友人は57歳で生涯を閉じた。病床生活は共に壮絶なものがありました。3年前の兄と友人の二人の死によって、今まで意識しなっかた老いとか、死とかを意識し始めました。
昨日、93歳になるお袋に会って成田山新勝寺にお参りに行くと話したら、あんたが巡礼などするとは思いもよらなかったと喜んで笑ってくれました。人は、老いと病と死に、いやおうでも向き合う時がやってきます。うろたえずに、定命(じょうみょう)の尽きるまで精一杯生きていかねればなりません。
「わたしの容色はおとろえはて
見るかげもない。
それは病いの棲み家
やがて亡(ほろ)びの死の淵へいく。
体は穢(けが)れと腐肉(ふにく)のつめもの、
やがて亡びはて死に帰る。」-ダンマパダ法句経146-
作家であり僧である瀬戸内寂聴さんが、「いま、釈迦のことば」(朝日文庫)の中で、
「人は生まれた瞬間から老いと死に向かって歩みだしています。老いは避けがたく、平等にすべての人に訪れ、やがてひとり残らず死の口に呑みこまれていきます。
それが人間の避け難い宿命なのです。
病気を「病魔」と呼び、人間は嫌いますが、一度死に至る病魔に魅入られ、とりつかれたら、人間はまだそれを完全に防ぎきる技術を持っていません。医学は日進月歩、めざましい発展をしていますが、薬や医術で治しきれない病いで、毎日地球の各地で死んでいます。その他に天災死、事故死、戦災死と、病気以外の事情でも、死はいつも人の背後にしのびよっているのです。
仏典の中には、お釈迦さまが、若い頃、お城の四つの門から外へ出て町を歩いていたとき、老人と病人と出家者を見て、この世に生老病死の苦があり、それを逃れるには修行をつんだブッダにならなければならないと感じた、という話があります。「四門出遊」というこの有名な話は、日本人ならたいていどこかで聞いたことがあるはずですが、それは常に忘れられ、誰もがのほほんと日常を暮しているのです。
人の命ははかないものです。
人の世はままならぬものです。
それでも私たちはこの世の大いなるものの意志で送りだされた以上は、定命つきるまでいきつづけなればなりません。」
と書いていますが、死を見つめるといのちの大切さを痛感し、だからこそ与えられたいのちをいききるのだと決意をあらたにするのです。またこの世の人生のなかで、何をしたいのか、何をするのかを考えるし、それは若いければ若いほうがよいと思う次第です。瀬戸内寂聴さんの「いま、釈迦のことば」(朝日文庫)は手軽に読めますので読んでみてください。びびと感じるものがありますよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿