2013年9月20日金曜日

中秋の名月ー禅(仏道)を歩むⅤ-

 おはようございます。
昨晩、中秋の名月ということで、20時ごろから空を眺め、満月を詣でました。ちょうど息子の嫁が、月見団子を作って持ってきてくれたので、美味しくいただいた次第です。さてさてウキペディアではどのように書いているか見てみました。

『月見(つきみ)とは、、主に満月を眺めて楽しむこと。観月(かんげつ)とも称する。
形から、鶏卵の黄身を満月に例えた料理も月見という。

この夜の月を「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」と呼ぶ。
「仲秋の名月」という表現もあるが、これだと「陰暦8月の月」を指し、十五夜の月に限定されなくなる。「仲秋」とは、秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分した場合、旧暦8月全体を指す。対して「中秋」とは「秋の中日」=陰暦8月15日のみを指す。
加えて、中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月(むげつ)」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と呼び、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を賞するものとされる。また、俳諧では8月14日 - 15日、16日 - 17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でる。』

FB友達の本荘和夫さんが撮ったものです。

松尾芭蕉はこの中秋の月を見て、「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んでいます。空には中秋の月があり、池のなかにも中秋の月が映しだされている。それを見ていると静かな池のまわりをまわって一晩すごしたということです。我と中秋の月と池のなかの月がひとつになっている風景が目に浮かびますね。

道元禅師は、
「人のさとりをうる、水に月がやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおおきなるひかりにてあれど、尺寸の木にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣偈せざること、滴露の天月を罣偈せざるがごとし、ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を辧取すべし。」と説法しています。

「月はほんの一滴の水のなかにもその姿を映すことができます。このことを深く考えていくと、一滴の水が月を映すということは、その一滴の水が全宇宙を含んでいるというぐらいに大きな考え方になってきます。道元がここで言いたいのは、私というのは確かに全宇宙に比べれば、ほんの小さな存在にしかすぎない。だけど、私といううものが全宇宙とイコールであるいうぐらいに気持ちになった時に初めて仏の悟りというものがわかるのであって、いかにも仏の悟りというものは、遠くにあるように思っているものだから、いつまでも経っても到着できないということなのです。そこまで壮大な気持ちにならなくても、「お月様のほうから、私の心の中に映ってくださるんだ」と考えても、悟りというものが非常に近くに感じることができるのです。」ー「仏教の智慧心の智恵」ー花山勝友編著(PHP研究所)

月を観て、歌を詠み、俳句を詠み、仏の悟りを得ることができる日本人に生れてきてよかったとつくづく思いました。よい週末をお過ごしください。感謝!合掌 徳温禅月。


2013年9月19日木曜日

禅(仏道)を歩むⅣ-山是山水是水ー

 おはようございます。
台風18号は、大きな傷跡を各地に残しました。その一方で、リニア新幹線の、東京品川から名古屋まで40分あまりで行くニュースがありました。そんなに急いで何しに行くのという心境は私だけでしょうか。経済が優先し、人々の精神がとりのこされていくのではないでしょうか。

少なくとも、都会で住む人たちは、週に一度は自然の山々、河川、そして海などに触れないとおかしくなるのは、もともと人間は自然の動物だからです。満員電車での中年男性の痴漢行為、降りてただひたすら会社に向かう無表情な顔、この国の人々は病んでいるのではないでしょうか。


2020年東京五輪そしてリニア新幹線など、否定はしませんが、さらに東京一極集中を加速させるのか、都市をまかなう電力は地方の福島県などの原発に依存して行くのか、そのような危惧をするのは、考えすぎでしょうか。

最近、地方分権や地方の活性化という言葉のトーンが落ちて聞こえなくなっていますが、経済も一極集中から地方分散して、地方での産業の育成や雇用の創出を計っていかなければ、日本国全体の国力は伸びることはないと思いますが皆さんはどう思いますか。

ところで、今日の山是山川是川(やまこれやまかわこれかわ)という言葉は、夏目漱石も湯河原の旅館に残したそうですが、山は山、川は川として見ることの大切さを詠んだものです。


私の「よろず相談室」で、育児のことをよく相談されますが、よく聴くとお母さんは自分と比較して子供をみたり、兄弟で比較したりして見ていることが多いのです。自分の時はこうだったのに、どうして子どもはできないのだろうかとか、お兄ちゃんややれるのに、弟はやれないとか、いつの間にか比較してみて、その狭間で悩んでいるんです。

自然が、山は山であるように、川が川であるように、人間ならなおさら、お兄ちゃんはお兄ちゃんの個性があり、才能があるのです。弟は弟の性格があり、能力があるのです。ありのままを見つめて、いいものを伸ばしてあげることが教育であり、育児ではないでしょうかとお答えするのです。


現代社会は、いびつな競争社会で、相対的に比較され評価され、格付けされます。そのように洗脳されているのではないでしょうか。ですからこのようなストレス社会のなかで、精神を病むことなく生きていくには、週に一回、それができない人は隔週に一回は、田舎に行ってみませんか。あなたの心の原風景があり、それが癒してくれます。

素直に物事を見つめる心を養うために、5分でも10分でも座禅をして、体を調え、呼吸を調え、こころを調えるとリフレッシュできます。今日一日、笑顔で元気に生きていきましょう。感謝!合掌、徳温禅月。



2013年9月18日水曜日

禅(仏道)を歩むⅢ-以心伝心ー

 おはようございます。
朝晩冷え込み、秋の気配を感じる今日この頃です。だんだん山々は紅葉してくるのが楽しみです。自然の営みの中に、神仏がが顕現してくださるのです。有り難いことです。

今日は、以心伝心という言葉を考えてみましょう。「こころでもって、こころをつたえる」と書いているのですが、この言葉は日常的に使われていて、都合よく使われている言葉でもあるのです。友人と会ったときに、おなじような思いのとき、以心伝心やわと言いますがちょっと違うと思うのです。

ご主人が、「言葉にださなくても、思ってることは家内に伝わるんだと、以心伝心だわ」といって、そう思い込んでいる人も多いものです。そして会話という愛情表現をしなくなくなると、だんだん冷めてくるのです。


こころの状態は、顔の表情やしぐさにあらわれてきますので、こころの状態をすがすがしく、清らかにしていないと、そのこころが相手につたわるのです。

2020年の東京五輪が決まったのですが、リオでのプレゼンテーションで、「おもてなし」という言葉を言った方がいますが、「おもてなし」は禅から茶道に受け継がれ、いまでは旅館などの観光業で使われています。まさに「おもてなし」のこころは、「以心伝心」で伝えることではないでしょうか。

禅には「不立文字」という言葉があります。文字であらわさず、体(こころ)で修行する、覚えるということですが、以心伝心も同じような意味で、言葉ではなく、こころから伝えることの大切さを言っているのです。

実は、中村天風先生が主宰した天風会があって、夏の修練会に参加すると、いくつかの実修があって、言葉を発せずに、思いで、指し示すものをあてることや、こころで重いと思うと誰も持ち上げられなくなる訓練をするのですが、これはこころの力を教えてくれているのです。

私たちが、相手のことをこころから大切に思っていると、そのことは自然に伝わるのです。たとえば年老いた父母を、いとおしく思うものは、その愛情は伝わります。逆に、嫌いだと思っている、軽率に思っているとその思いまた伝わるのです。

ですから大事なことは、わたしたちのこころをいつも見守り、こころが正常にはたらくようにしなければなりません。そのためにも、朝夕の座禅は、歯を磨くがごとく、食事をするがごとく、大事なことなのです。

ビジネスマンで、今、多忙ですと当たり前のように言う人がいますが、この忙しいという言葉こそ気をつけないと、「忙=心を亡くす」と書いています。心を亡くして仕事をしているとろくな仕事はできず、トラブルを引き起こします。忙しいと感じたときは、イス禅でも、立禅でもできますので、取り入れれば必ずリフレッシュできますよ。

「清らかなこころで、こころからこころにつたえることができますように、おちからをください。」とお祈りします。合掌 徳温禅月。






2013年9月17日火曜日

禅(仏道)を歩むⅡ-信心と信仰ー

 おはようございます。
台風18号は、近畿・北陸・東海・関東・東北など全国各地に被害をもたらしました。亡くなられ方のご冥福をお祈りします。合掌。また被災された皆様にお見舞い申し上げます。昨年、北部九州大水害で経験しましたが、泥のかきだし、洗浄、後片付け、消毒など、被災された方は、これに没頭しなくてはなりませんが、くれぐれも健康に留意され、一刻も早く立ちなおりますようにお祈りいたします。

ところで、檀信徒は毎日、座禅をし、朝課として読経します。座禅は何のためにするのでしょうか。まず、夜寝る前に座禅をし、こころを調え、就寝します。朝、起きて神仏に感謝し、半跏趺座にすわり、体の姿勢をととのえます。そして大きく一呼吸し、座禅に入ります。

座禅に入ると、当然のごとく雑念が湧いてきます。そのときに、朝の鳥の鳴き声などに耳を集中します。次におりんをならし、おりんの音に集中すると、雑念が無くなります。つまりこころを調えているのです。

ものごとに動じないこころ、こだわらないこころ、本来のこころを信じることが信心です。ですから信心を強くするためにも座禅をするのです。


朝課の読経をするのですが、曹洞宗では、妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈、大悲心陀羅尼、消災妙吉祥陀羅尼、そして般若心経を唱えます。観世音菩薩が、わたし達の願いを聴かれ、私たちにふりかかるすべての災難を取り除いてくださるのです。

陀羅尼は、サンスクリット語で、神仏のおおいなる慈悲の救いを讃え、祈りを捧げるのです。これが信仰です。信心と信仰が一体となる時、すべての悩み、すべての苦難は取り除かれるのです。行為そのものは、自力と他力が働いてくれるのです。

地球は、人間の身勝手でおかされ、温暖化が進み、日本においても、いままでに経験したことのない大洪水、竜巻、台風が起きているのです。このことはWWFなどが警告してきましたが、いまだ温暖化防止のための二酸化炭素排出規制が、国際的にできていません。

現代文明のなかで、便利さ、豊かさのみ追い求め、自然を破壊したツケが今、廻ってきています。被災された方に罪はありませんし、誰の身にも起きるのです。その時に、私たちは心を正常に保つことが大事です。そして、神仏に災難を取り去ってくれるように祈る時、神仏は必ずや救い出してくれるでしょう。現代人はこの素朴な、祈りという行為を取り戻すべきではないでしょうか。合掌 徳温禅月


2013年9月16日月曜日

禅(仏道)を歩むⅠ-日々是好日ー

 おはようございます。
9月16日敬老の日です。93歳になるお袋が自宅で療養しているので、お見舞いかたがたお袋の様子を見に行きましたが、時間の経過とともに、老いてゆく姿をみると、人生の無常を感じざるを得ません。

人生は「生老病死」の四苦八苦だと言われても、若いときは感じないものですが、生きていく上には、仕事上のトラブルを抱えたい、なかなか思うように実績が上らなかったり、職場の人間関係に悩んだり、家庭もそれぞれが勝手に動くようになり、妻や子供との関係が希薄になり、ふと何のために生きているのか思うことがある方も少なからずおられると思います。

日本民藝館の庭園にて

そして、40、50と歳をとっていくと、高血圧症だと言われ、生活習慣病を併発するのでと薬を処方されるのです。確実に体が老いていっているのがわかり始めるのです。ましてやお袋のように、耳を聞こえない、起きて歩くこともしんどくなる。

「元気かい」と声をかけると、「まだ生きているよ」を返事をしてくる。この人生の荒波を越えてきて、次に死という到着点を意識して老後を過ごしている方も多いのではないでしょうか。それでも生きていく、生かされている。敬老の意味が、年老いた母をみているとわかりかけてきた。

しかし、このような「生老病死」の人生のなかでも。「日々是好日」と禅師は教えてくれました。雨の日もまたよし、仕事に行きづまった時もまたよし、人にいやみも言われてもまたよしと、何事にもとらわれず、ある意味では飄々と生きて行ける心構えをもてるのが禅なのかもしれません。

特に禅において、座禅をすると、こころが落ち着いてくるのです。姿勢を調え、呼吸を調え、こころを調えると言いますが、釈迦牟尼仏の悟りは、座禅によって達成されたのです。そのことを折角教えているのに、座禅をしないのは、現代人は勿体ないことです。

日本民藝館の庭園にて

ではイエスキリストはどうしたのでしょうか。聖書には、キリストは一人山に行き、神に祈っていたと書いています。近年聖書学者は、イエスキリストはエッセネ派というクムラン洞窟で瞑想する集団に所属し、当時のユダヤ教徒とは違う集団生活を送っていたと言っています。つまりキリストもまた座禅をし、こころを鎮め、瞑想し、神に祈っていたのでしょう。現在、カトリックでも座禅が取り入れられています。

人生には、いつも楽しい、愉快の時ばかりではなく、悲しい、苦しい、逆境の日々も押し寄せてくるのです。そんなとき、「日々是好日」の禅語を思い出していただければ、悪いときも、こだわらない心が呼び戻されて来ます。

まずは今日一日を精一杯に生きることです。晴れの日もよし、雨の日もよし、風の日もよし、ものごとを動じないこころを育てるのも禅(仏道)かなと思います。合掌!徳温禅月。



2013年9月13日金曜日

在家得度(受戒)式

 おはようございます。
10日、日本民藝館を後にして、16時からの日本仏教伝道協会にての、在家得度式(受戒)にのぞみました。昨年2月からの東京国際仏教塾のオリエンテーションそして入塾から、仏教入門課程と宗旨専門課程の全課程を修了し、宗旨は曹洞宗を選びましたので、中野東禅先生に師事し、在家得度(受戒)に至ることができました。

8月に亡くなられた同期生を含め、第25期生で曹洞宗コースを選ばれた方のうち、12名の方が得度できました。得度式は大変厳かに行われました。得度とは仏弟子になるということですので、仏道を歩み、生きるなかで、戒を守り、修行し、衆生のためになるおこないをしなければなりません。


釈迦牟尼仏より祖祖単伝された禅の法灯八十六代慧日山龍宝寺住持比丘 越岳東禅師より、「徳温禅月信士」の戒名を授与してしていただきました。



「戒名授与の証書」の中に、『仏弟子となり「仏とその智慧(法)と師」の三宝を信じる受戒によって人生と来生を空のこころで飾られたことをここに確かめます。』と書いてあります。授与された戒名「徳温禅月」の意味は、「教育を通して温かい心を伝え、そのさわやかさは生まれた秋の月のように澄んでいる徳を表します。」と東禅師よりご説明書をいただきました。この戒名に恥じる事のない人生を歩む決意をした次第です。

授与されました「戒名授与の証」、「輪袈裟」、「お数珠」などです。

無事、得度式が終了し、中野先生を囲んで、記念撮影です。ありがとうございました。


 
これを機会に、さらに修行に励み、社会教育を通して、仏法を伝え、悩み苦しむ人々に手をさしのべて行きたいと思いました。「徳温禅月のよろず相談室」にて受けたまわりますのでご遠慮なくご連絡ください。読者諸氏のご健康とご多幸をお祈りします。合掌。

また、終了後ホテルにて、中学校時代の同級生と四十八年ぶりに再会し、近況を語り会いました。立派な人生を歩んでおりました。これもまた仏縁です。また翌日には、青年会議所そして前職時代に、大変お世話になった千葉の社長さんの会社にご挨拶にいくことができ、たいへん感謝な旅でした。合掌。



2013年9月12日木曜日

日本民藝館へ行く

 おはようございます。
10日に日本民藝館に見学に行って来ました。それは5月に日田市で、「民藝と小鹿田」-受け継がれる炎シンポジュームーがあり、柳宗悦氏が創建した日本民藝館とはどのような所かいってみたくなったからです。

実は43年前の、70年安保のときに、すぐ近くの東京大学駒場に全共闘が集まったことを思い出しました。東京国際仏教塾の同期生と駒場駅で待ち合わせをし、近くの喫茶店で会食しました。

彼は、スリランカの旅から帰ってきたばかりで、犬や像など動物もすべて穏やかで、本当の幸せは、文明社会ではなく、スリランカにあるのかもしれないと旅のお話を聞かせていただきました。感謝です。

駒場駅から坂道をすこし登っていくと、古民家風の日本民藝館が見えて来ます。



西館は柳宗悦氏が栃木から明治初期の長屋門(登録有形文化財)と母屋からなっています。



館内は撮影できませんので、庭内の写真を撮りました。


本館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、思想家の柳宗悦により企画され、設計は細部まで柳が手がけました。所蔵品は、陶磁・染織・木漆工・絵画・金工・石工・編組など、柳の審美眼で選ばれた古今東西の諸工芸品約17000点があります。(当館パンフレットより)

柳宗悦氏の仏教思想が庭内から感じ取れました。庭内の仏像です。


この日は特別展として「柳宗理の見てきたもの」が開催されていまして、日田の小鹿田焼の皿、壺なども展示されており、地元でもみることのできない逸品でありました。「緑刷毛目皿」「白地緑掛蓋壺」「刷毛目蓋壺」などです。一度日本民藝館に足を運んでみて下さい。

日本民藝館をあとにして、今回の大事な行事の、「得度受戒式」のため、田町にあります仏教伝道協会へと移動しました。明日、記載します。