9月16日敬老の日です。93歳になるお袋が自宅で療養しているので、お見舞いかたがたお袋の様子を見に行きましたが、時間の経過とともに、老いてゆく姿をみると、人生の無常を感じざるを得ません。
人生は「生老病死」の四苦八苦だと言われても、若いときは感じないものですが、生きていく上には、仕事上のトラブルを抱えたい、なかなか思うように実績が上らなかったり、職場の人間関係に悩んだり、家庭もそれぞれが勝手に動くようになり、妻や子供との関係が希薄になり、ふと何のために生きているのか思うことがある方も少なからずおられると思います。
日本民藝館の庭園にて
そして、40、50と歳をとっていくと、高血圧症だと言われ、生活習慣病を併発するのでと薬を処方されるのです。確実に体が老いていっているのがわかり始めるのです。ましてやお袋のように、耳を聞こえない、起きて歩くこともしんどくなる。
「元気かい」と声をかけると、「まだ生きているよ」を返事をしてくる。この人生の荒波を越えてきて、次に死という到着点を意識して老後を過ごしている方も多いのではないでしょうか。それでも生きていく、生かされている。敬老の意味が、年老いた母をみているとわかりかけてきた。
しかし、このような「生老病死」の人生のなかでも。「日々是好日」と禅師は教えてくれました。雨の日もまたよし、仕事に行きづまった時もまたよし、人にいやみも言われてもまたよしと、何事にもとらわれず、ある意味では飄々と生きて行ける心構えをもてるのが禅なのかもしれません。
特に禅において、座禅をすると、こころが落ち着いてくるのです。姿勢を調え、呼吸を調え、こころを調えると言いますが、釈迦牟尼仏の悟りは、座禅によって達成されたのです。そのことを折角教えているのに、座禅をしないのは、現代人は勿体ないことです。
日本民藝館の庭園にて
ではイエスキリストはどうしたのでしょうか。聖書には、キリストは一人山に行き、神に祈っていたと書いています。近年聖書学者は、イエスキリストはエッセネ派というクムラン洞窟で瞑想する集団に所属し、当時のユダヤ教徒とは違う集団生活を送っていたと言っています。つまりキリストもまた座禅をし、こころを鎮め、瞑想し、神に祈っていたのでしょう。現在、カトリックでも座禅が取り入れられています。
人生には、いつも楽しい、愉快の時ばかりではなく、悲しい、苦しい、逆境の日々も押し寄せてくるのです。そんなとき、「日々是好日」の禅語を思い出していただければ、悪いときも、こだわらない心が呼び戻されて来ます。
まずは今日一日を精一杯に生きることです。晴れの日もよし、雨の日もよし、風の日もよし、ものごとを動じないこころを育てるのも禅(仏道)かなと思います。合掌!徳温禅月。
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