おはようございます。
罪の原因をみずからの境遇や運命だと自己弁護する者がいますが、貧しいから泥棒をしたとか、むしゃくしゃした、ふと思いついた、だから痴漢した、強姦したとか、そのような言い訳が許されるはずがありません。貧しくても、一所懸命に働いて子どもたちを立派に育てあげた方はたくさんおられます。自分の感情をおさえ、自らを律して生きている方も五萬といます。
お釈迦様は、誤っ人生観を持ってる方がいることを指摘しています。
「この世の中には三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、すべて神のみ業であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。・・・・・」
運命であろうはずがない。幸福になることも不幸になることも運命で定められているなら、生きている価値すらなくなってしまいます。仮に運命なるものがあってもそれは努力で変えられるものです。だからどんな人も成長できるのです。
神のみ業のせいにしたり、また悪霊のせいにしたりする方もいますが、神は自ら助ける者を助けてくださるのです。努力もしないものに、神は手助けなどしてはくれません。また悪い時は、悪霊のせいにする人もいますが、悪霊を呼び寄せるのは実はその人なのです。確固たる自分を持つことです。信仰はそういう方に働くのです。
結果には原因があり、すべて縁起でものごとが起こっている天地宇宙の原理原則を知らなければ豊かな人生を送ることはできません。幸も不幸もすべて原因と結果の法則にあるのです。
「だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)P47~-
わたしは、あらゆる世界の成功哲学を読んできましたが、釈尊の教えほど理にかなったものはありません。つまらぬセミナーに出る暇があったら、この仏教聖典を毎日読みませんか。必ず成功します。成功とは豊かな人生を送ることです。
それでは皆様の人生が豊かでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
2014年6月11日水曜日
2014年6月10日火曜日
「仏教聖典」を読む~理想の生き方~
おはようございます。
昨日、現実の世界がどのようなものであるかを書きましたが、子どもを放置して自分は女のところに行き、死にいたらしめたり、女子高生を殺害し、山に遺棄するなど、餓鬼よりひどいことが日常茶飯事に起きています。悪魔・悪霊に憑依された人間がうようよしていることを教えなければなりません。
昨日、「聖書」のなかの「マタイの福音書」を読みかえしましたが、この現実世界をありありと書いています。宗教団体もあてにならない。隣国の宗教団体の最高責任者は、自己責任を明らかにせず、逃亡しています。これらの者はすべて悪魔に魅せられた人間です。
仏教聖典に「悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。」と書いています。このような現実の世界のなかで我々人間の生き方がどうあるべきかをお釈迦様は述べています。これが理想とする人間の生き方です。
「教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るとkろの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。
妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、こころの治める心の王国となる。
まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。
ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。
まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)P244-9行ー
仏の国を、神の国と置き換えると、聖書が述べていることと同一だと思うのです。クリスチャンの人は毎日、朝に夕に、聖書を読みます。仏教徒と称する日本人は今、何を指針としているのでしょうか。
わたしがこの仏教聖典を読むことをお薦めしているのは、真理を説き明かしているからです。宗教団体に入る必要のないし、欲にまみれた坊主の話を聴く必要もありません。毎日、少しづつ読んで、血肉にするのです。個人でも、ご家庭でも、この立証された仏教聖典を読みましょう。
それでは、皆様が危険から守られますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
昨日、現実の世界がどのようなものであるかを書きましたが、子どもを放置して自分は女のところに行き、死にいたらしめたり、女子高生を殺害し、山に遺棄するなど、餓鬼よりひどいことが日常茶飯事に起きています。悪魔・悪霊に憑依された人間がうようよしていることを教えなければなりません。
昨日、「聖書」のなかの「マタイの福音書」を読みかえしましたが、この現実世界をありありと書いています。宗教団体もあてにならない。隣国の宗教団体の最高責任者は、自己責任を明らかにせず、逃亡しています。これらの者はすべて悪魔に魅せられた人間です。
仏教聖典に「悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。」と書いています。このような現実の世界のなかで我々人間の生き方がどうあるべきかをお釈迦様は述べています。これが理想とする人間の生き方です。
「教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るとkろの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。
妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、こころの治める心の王国となる。
まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。
ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。
まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)P244-9行ー
仏の国を、神の国と置き換えると、聖書が述べていることと同一だと思うのです。クリスチャンの人は毎日、朝に夕に、聖書を読みます。仏教徒と称する日本人は今、何を指針としているのでしょうか。
わたしがこの仏教聖典を読むことをお薦めしているのは、真理を説き明かしているからです。宗教団体に入る必要のないし、欲にまみれた坊主の話を聴く必要もありません。毎日、少しづつ読んで、血肉にするのです。個人でも、ご家庭でも、この立証された仏教聖典を読みましょう。
それでは、皆様が危険から守られますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
2014年6月9日月曜日
「仏教聖典」を読む~現実の世界~
おはようございます。
この世は、魑魅魍魎の世界かもしれませんね。昨日、熊本で、高校生の遺体が発見されましたが、容疑者は静岡の47歳の無職の男だそうですが、なぜ顔見知りになったのか不思議でたまらない。ご両親はいたたまれないと思います。その無念ははかりしれないでしょう。
この「仏教聖典」は巻末に生活索引がありますので、今、考えていることや悩んでいること、苦しんでいることなどの項目を読むことができるように構成されています。至れり尽くせりですね。
今日は、この現実の世界について、お釈迦様が述べているところを抜粋します。P100の11行です。
「またこの世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみ合っている。
二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
四つには互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉い者であるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)-
解説する必要のないくらい、この現実の世界を言いあてていますね。ではどうあるべきかは、この仏教聖典に答えが書いています。これを毎日読んでいる人と、本能のおもむくままに生きている人とでは、月とすっぽんなのです。
それでは皆様の現実の生活が、良い方向に変わりますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
この世は、魑魅魍魎の世界かもしれませんね。昨日、熊本で、高校生の遺体が発見されましたが、容疑者は静岡の47歳の無職の男だそうですが、なぜ顔見知りになったのか不思議でたまらない。ご両親はいたたまれないと思います。その無念ははかりしれないでしょう。
この「仏教聖典」は巻末に生活索引がありますので、今、考えていることや悩んでいること、苦しんでいることなどの項目を読むことができるように構成されています。至れり尽くせりですね。
今日は、この現実の世界について、お釈迦様が述べているところを抜粋します。P100の11行です。
「またこの世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみ合っている。
二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
四つには互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉い者であるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)-
解説する必要のないくらい、この現実の世界を言いあてていますね。ではどうあるべきかは、この仏教聖典に答えが書いています。これを毎日読んでいる人と、本能のおもむくままに生きている人とでは、月とすっぽんなのです。
それでは皆様の現実の生活が、良い方向に変わりますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
2014年6月5日木曜日
宗教とは教戒である
おはようございます。
小さい頃から悲観的ではなく楽観的に、消極的ではなく積極的にと教えられてきました。一昨日北海道では37度の猛暑日を記録しました。九州は猛暑日から梅雨入りし、朝晩が涼しいどころか寒くなりました。
エルニーニョ現象という奇怪な天候を作り出したのは、神様でしょうか、人間でしょうか、人間です。人間は、人間同士で殺し合い、動物を殺し、自然を破壊し、公害を作り出し、権力闘争に明け暮れています。だから本当は、悲観的に、消極的に物事を視ることも大事だと思うのです。
2500年前、消極的でもなく、積極的でもなく、悲観的でもなく、楽観的でもなく、中庸の心で物事を正しく見、正しい行動することを説いた方がおられます。そのお方は、お釈迦様、仏陀、釈尊、釈迦牟尼仏と言われた方です。
ウキペディア「釈迦」より涅槃像
仏教聖典のなかの最期の教えの5で、仏陀はこのように言っています。
「仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体は滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知るものこそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。・・・・・
弟子たちよ、今やわたしは最期である。わたしは今より、涅槃に入るであろう。これがわたしの最期の教戒(きょうかい)である。」-「仏教聖典」(仏教伝道協会)ー
つまり仏教(宗教)とは、宇宙の原理原則、天地万物の法則、人間の本質を説き明かした教えであり、この地球で生きるための戒め(いましめ)であるのです。だから宗教は、あいまいなものでなく、教戒なのです。そして教育が必要なのです。
2500万年前から、人間が仏陀の教戒を守り、生き続けていたら、歴史は違っていたでしょう。しかし現実は、人間の欲望が渦巻き、どれだけ多くの血が流されていったのでしょう。それでも仏陀は、いつでも教えにかえるように諭しているのです。
これから、梅雨入りし、天候が悪化しますが、皆様が安全無事でありますようにお祈りいたします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
小さい頃から悲観的ではなく楽観的に、消極的ではなく積極的にと教えられてきました。一昨日北海道では37度の猛暑日を記録しました。九州は猛暑日から梅雨入りし、朝晩が涼しいどころか寒くなりました。
エルニーニョ現象という奇怪な天候を作り出したのは、神様でしょうか、人間でしょうか、人間です。人間は、人間同士で殺し合い、動物を殺し、自然を破壊し、公害を作り出し、権力闘争に明け暮れています。だから本当は、悲観的に、消極的に物事を視ることも大事だと思うのです。
2500年前、消極的でもなく、積極的でもなく、悲観的でもなく、楽観的でもなく、中庸の心で物事を正しく見、正しい行動することを説いた方がおられます。そのお方は、お釈迦様、仏陀、釈尊、釈迦牟尼仏と言われた方です。
ウキペディア「釈迦」より涅槃像
仏教聖典のなかの最期の教えの5で、仏陀はこのように言っています。
「仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体は滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知るものこそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。・・・・・
弟子たちよ、今やわたしは最期である。わたしは今より、涅槃に入るであろう。これがわたしの最期の教戒(きょうかい)である。」-「仏教聖典」(仏教伝道協会)ー
つまり仏教(宗教)とは、宇宙の原理原則、天地万物の法則、人間の本質を説き明かした教えであり、この地球で生きるための戒め(いましめ)であるのです。だから宗教は、あいまいなものでなく、教戒なのです。そして教育が必要なのです。
2500万年前から、人間が仏陀の教戒を守り、生き続けていたら、歴史は違っていたでしょう。しかし現実は、人間の欲望が渦巻き、どれだけ多くの血が流されていったのでしょう。それでも仏陀は、いつでも教えにかえるように諭しているのです。
これから、梅雨入りし、天候が悪化しますが、皆様が安全無事でありますようにお祈りいたします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
2014年6月4日水曜日
殺すなかれ!
おはようございます。
九州でも昨日から梅雨入りしました。日田市では、全国一位の温度を記録して、紫陽花は今にも、うなだれて枯れそうになっていました。水をかけていましたが、1昨日からの雨で生きかえったのです。天地万物、すべてのものに命があります。
釈尊は言いました。「殺すなかれ」と。それは人間同士を言っているのではありません。山川草木、すべての生きとし、生けるものすべてを殺すなと言っているのです。人間が生きるために、食物をいただくことは、他の植物などのいのちをいただくものです。それ以外は認められないのです。
昨今のペットに対する人間の身勝手から、捨てる、売り物にするため異常な交配をさせる。しまいには殺処分してしまう。人間界では、親が子を殺し、子が親を殺す、大切な友人でさえ殺す、そのようなニュースがいとまもなく流れてきます。
都会では、親が死んだら火葬して、そのままお骨は処分してもらう、そのようなことを推奨する新興宗教すらあるのです。世は末を言われたましたが、まさに今がそうかもしれません。そのようななか、殺処分ゼロをめざして頑張っている方々がいます。下記のBUZZNEWSを読んでください。
九州でも昨日から梅雨入りしました。日田市では、全国一位の温度を記録して、紫陽花は今にも、うなだれて枯れそうになっていました。水をかけていましたが、1昨日からの雨で生きかえったのです。天地万物、すべてのものに命があります。
釈尊は言いました。「殺すなかれ」と。それは人間同士を言っているのではありません。山川草木、すべての生きとし、生けるものすべてを殺すなと言っているのです。人間が生きるために、食物をいただくことは、他の植物などのいのちをいただくものです。それ以外は認められないのです。
昨今のペットに対する人間の身勝手から、捨てる、売り物にするため異常な交配をさせる。しまいには殺処分してしまう。人間界では、親が子を殺し、子が親を殺す、大切な友人でさえ殺す、そのようなニュースがいとまもなく流れてきます。
都会では、親が死んだら火葬して、そのままお骨は処分してもらう、そのようなことを推奨する新興宗教すらあるのです。世は末を言われたましたが、まさに今がそうかもしれません。そのようななか、殺処分ゼロをめざして頑張っている方々がいます。下記のBUZZNEWSを読んでください。
「犬・ネコ殺人ゼロ」を掲げる、ある動物センターの姿勢に感動
年間、20万匹以上……。
あなたは、この数字が何をあらわしているか、わかりますか?

実はこれは、日本で殺処分される犬・猫の数です。
一日に換算すれば、約550匹。今、この瞬間にも、かけがえのない命が殺されていっているのです……。
・殺処分の仕組みとは?


・【殺処分の法的根拠】狂犬病予防法第6条九項「犬を抑留したとの通知を受け取った後又は公示期間満了の後一日以内に所有者がその犬を引き取らないときは、予防員は政令の定める所により、これを処分することができる」・【引き取りをする法的根拠】動物の愛護及び管理に関する法律(動愛法)第35条「都道府県等・・・は、犬又はねこの引取をその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。・・・」
つまり、非常識な飼い主が希望しさえすれば、罪のない犬・猫が殺処分に処されてしまいます。それが、今の現実なのです……。
・合言葉は「嫌われる行政になろう」
「殺処分ゼロ」を掲げる、熊本市動物愛護センターとは?

「殺処分ゼロ」を掲げる、熊本市動物愛護センターとは?

そんな過酷な現状に立ち向かうために、熊本市動物愛護センターは立ち上がりました。彼らの目標はただ一つ、「犬・猫の殺処分ゼロ」です。
・「殺処分ゼロを目指す」2002年、熊本市動物愛護センタ-の職員たちは実現不可能とも思えるそんな目標を掲げた。合言葉は「嫌われる行政になろう」・「H13年に淵邉さんという人が所長になりました。淵邉さんは当時の施設の状況に『どぎゃんかせんといかん』と思ったそうです。職員一人一人に尋ねるとみな、自分の心を押し殺していたようで、一様に『もう殺処分はしたくない』という反応が返ってきました。・ある時、ポストイットを使って、ブレーンストーミングを行った所、実はみんなの思いは一つだったことが分かりました『殺処分0を目指す』ということです。
・なぜ、「殺処分ゼロ」を目指すと「嫌われる」のか?


しかし、なぜ「犬・猫の殺処分ゼロを目指す」と、「嫌われる行政になる」のでしょうか?その秘密は、安易にペットを捨てる飼い主に対する、センター職員の毅然とした態度にあります。
1、無責任な飼い主とは闘う。
・「噛み癖があって飼えない」60歳代の男性はそんな理由で、コ-ギ-を持ち込んできた。元々飼っていた息子が海外転勤になり、自分が面倒を見ることになったという。「犬が悪いことをしたんだから、罰を受けて当然だろう」そう主張する男性に対し、小山信係長がこう詰め寄った。「噛んでいいと教えてしまったのはあなたの息子ではないか。息子の失敗を、なぜこの犬が命をかけて償わなければいけないのですか」・またある時は、引っ越しで飼えなくなったという女性が来た。小山さんはまずこう諭した。「ここに来れば、この犬は命を絶たれます。飼い主としての最後の責任を果たすため、新たな飼い主を探してください」だが、女性は、30人ほどの知人にあたったが、見つからなかったと説明する。それでも、小山さんは食い下がる。「たった30人に聞いて回ったくらいでこの犬が殺されるなんて、理不尽じゃないですか?」
2、飼い主への指導を行う。
・熊本市の愛護センターでは、安易な引き取りをせず、『この犬と暮らした日々を思い出してください』『引き取り手を真剣に探しましたか?』といった指導をします。・場合によっては、飼い主を殺処分に立ち会わせる。
飼い主に犬を抱えさせたまま、獣医師が麻酔薬などを静脈注射する。犬は飼い主の腕のなかで痙攣しながら亡くなっていく。そんな経験をした飼い主は「二度と飼わない」などと言い残し、帰っていくという。・「本来、市の窓口は市民に嫌な思いをさせてはいけないのですが、犬を捨てに来た人には、嫌な思いをしてもらおうと決めました。窓口では時には声を荒げてでも説得し、翻意してもらおうと考えたのです」・「嫌われてもいい。泣かせるくらい、飼い主に『何をしているんだ』と問うべきなんだ」と強く指導する。・ときには言い合いになったりもしますが、粘り強く説得することで、ペットをもう一度飼い主の元へ戻すことへ成功しています。
・施設内では、犬の飼い方も、愛情が感じられます。


・犬たちは檻の中ではなく、一匹ずつ、日当たりの良い屋外に・ご飯のあげ方も特徴的です。一匹ずつ皿が用意され、公平に配られます。・檻の前には一頭一頭、名前と性格シートが掲示されています。
・そして、圧倒的な成果


・平成14年度には393頭の犬・猫が殺処分されていましたが、平成18年度には59頭、平成21年度には7頭に減りました・もう飼えないからと持ち込まれるペットの数も平成14年度には242頭でしたが、平成23年度には32頭にまで減りました」
・しかし、まだまだ厳しい現実が存在する……


熊本市動物愛護センターは、以上のような素晴らしい思想のもと、見事な成果を出してきました。しかし、現実はまだまだ厳しいのが現状です……。
・熊本市動物愛護センター(同市小山)は25日、犬3匹を殺処分したことを明らかにした。26日も犬3匹の処分を決めている。・昨年度は1匹だったが収容数が限界を超えていたこともあり、「苦渋の決断」(同センター)を余儀なくされた。・同センターで一度に収容できるのは施設規模から50~60匹程度が限界。昨年度から満杯状態が続いていた。・収容キャパを越えた状態での保護をされていた結果、感染症の発生等を懸念
今も熊本市動物愛護センターでは、「殺処分ゼロ」をめざし、日々、努力しています。しかし、その目標を達成するためには、なによりも、一人ひとりの飼い主の意識の変化が必要です。飼い主が、最後まで責任を持ってペットを飼うことこそが、最も重要なことなのですから……。
彼らの取り組みが一人でも多くの人に知られ、罪のない命が奪われることがなくなることを、願ってやみません。 ーBUZZNEWSよりー
2014年6月3日火曜日
「仏教聖典」を読む~最後の教え4終活~
おはようございます。
お釈迦様は、最期が近づいてきたとき、教えを弟子たちに語りかけたのです。
「弟子だちよ、わたしの終わりはすでに近い。・・・・・
世は無常であり、生まれて死なない者はない。わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
・・・・
煩悩の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
煩悩の賊はおわなければならない。煩悩の蛇はださなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。」-仏教聖典(仏教伝道協会)-
わたしは、自らの終活と、終活支援活動をしていますが、生と死、そして生老病死に向かいあうことが終活の第一歩だと思っています。宗教とは何かと言ったら、書いて字のごとく、おおもとの教えであります。
釈尊が悟った法(天地の原則)は実に真理であり、その法を知ることが生きていくことではないでしょうか。ある牧師先生が、もし金魚鉢のなかの金魚が自由になりたいと言って、金魚鉢からはね出たら、間違いなく死ぬでしょうとお話していましたが、その通りです。
金魚鉢とは、真理あるいは法ですね。法を知らずに生きているなら、その人は煩悩の虜になって身を滅ぼすのです。
ある公民館で、終活を「いとまごい」事業として取り組んでいるところがあります。いとまごいとは暇をくださいと申し出ることですが、死を意識して、煩悩の生活から脱却して、自分を見つめていくことですね。素晴らしい活動だと思います。
わたしもあなたもいつか、煩悩にほんろうされることなく、静かに永遠の眠りにつくことができるのです。それまでにしたいこと、すべきこと、善きことを悔いがないようにしておこうではありませんか。
それでは皆様の人生が実り多いものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
お釈迦様は、最期が近づいてきたとき、教えを弟子たちに語りかけたのです。
「弟子だちよ、わたしの終わりはすでに近い。・・・・・
世は無常であり、生まれて死なない者はない。わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
・・・・
煩悩の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
煩悩の賊はおわなければならない。煩悩の蛇はださなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。」-仏教聖典(仏教伝道協会)-
わたしは、自らの終活と、終活支援活動をしていますが、生と死、そして生老病死に向かいあうことが終活の第一歩だと思っています。宗教とは何かと言ったら、書いて字のごとく、おおもとの教えであります。
釈尊が悟った法(天地の原則)は実に真理であり、その法を知ることが生きていくことではないでしょうか。ある牧師先生が、もし金魚鉢のなかの金魚が自由になりたいと言って、金魚鉢からはね出たら、間違いなく死ぬでしょうとお話していましたが、その通りです。
金魚鉢とは、真理あるいは法ですね。法を知らずに生きているなら、その人は煩悩の虜になって身を滅ぼすのです。
ある公民館で、終活を「いとまごい」事業として取り組んでいるところがあります。いとまごいとは暇をくださいと申し出ることですが、死を意識して、煩悩の生活から脱却して、自分を見つめていくことですね。素晴らしい活動だと思います。
わたしもあなたもいつか、煩悩にほんろうされることなく、静かに永遠の眠りにつくことができるのです。それまでにしたいこと、すべきこと、善きことを悔いがないようにしておこうではありませんか。
それでは皆様の人生が実り多いものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
2014年6月2日月曜日
「仏教聖典」を読む~最後の教え3~
おはようございます。
先日、由布院に行き、友人のお仏壇におまいりして、散策しました。夏の風が吹きわたり、木々が青々と生い茂り、さわやかな気分になりました。お釈迦様はインドの山や谷を歩き、村々で説法したのでしょう。
仏教聖典の1章、2節に最期の教えとなっていますが、とても省略できないので、皆さんに全文をご紹介したいと思っています。
「三、弟子たちよ、おまえたちはおの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実をとるがよい。
弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だからこの教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。またこの教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。」ー仏教聖典(仏教伝道協会)ー
聖徳太子ほど、仏教理解し、現実の政治に活かした方はいない。そしてそのことは今日の日本の礎になっています。太子のもっとも重要なお言葉は「和をもって尊しとせよ」で、相和し、相敬い、争いを起こしてならないという思想です。
現代社会のなかで、生きてゆくとき、相手がどのような考え方をしているかを理解して、付き合わないと問題が生じます。政治思想や宗教観がその人に影響を与えているわけですから、おのずと行動にも現れてきます。
世界を見渡すと、今大きく世界が二分してきているように思えてきます。共産主義・全体主義の亡霊が甦ろうとしています。仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教と共産主義思想は、マルクスが提起した時から相入れないものだと思っています。
民主的国家でないところとどのように対峙していくか、付き合っていくか、水と油ははじきあうのです。世界のすべての国が真の意味で民主国家にならないかぎり、宗教や思想の自由も、認められないし、一部の特権階級のみが富を独占しているのです。
さて、そのような世界情勢のなかでも、仏陀の教えを守り、つまらないことに心をつかうことなく、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘もうではありませんか、道の果実を得ようではありませんか。
仏陀は言っています。時間を超えて、この教えの通りに行う者は、わたしとともにいると。それでは皆様の人生が豊かなものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
先日、由布院に行き、友人のお仏壇におまいりして、散策しました。夏の風が吹きわたり、木々が青々と生い茂り、さわやかな気分になりました。お釈迦様はインドの山や谷を歩き、村々で説法したのでしょう。
仏教聖典の1章、2節に最期の教えとなっていますが、とても省略できないので、皆さんに全文をご紹介したいと思っています。
「三、弟子たちよ、おまえたちはおの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実をとるがよい。
弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だからこの教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。またこの教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。」ー仏教聖典(仏教伝道協会)ー
聖徳太子ほど、仏教理解し、現実の政治に活かした方はいない。そしてそのことは今日の日本の礎になっています。太子のもっとも重要なお言葉は「和をもって尊しとせよ」で、相和し、相敬い、争いを起こしてならないという思想です。
現代社会のなかで、生きてゆくとき、相手がどのような考え方をしているかを理解して、付き合わないと問題が生じます。政治思想や宗教観がその人に影響を与えているわけですから、おのずと行動にも現れてきます。
世界を見渡すと、今大きく世界が二分してきているように思えてきます。共産主義・全体主義の亡霊が甦ろうとしています。仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教と共産主義思想は、マルクスが提起した時から相入れないものだと思っています。
民主的国家でないところとどのように対峙していくか、付き合っていくか、水と油ははじきあうのです。世界のすべての国が真の意味で民主国家にならないかぎり、宗教や思想の自由も、認められないし、一部の特権階級のみが富を独占しているのです。
さて、そのような世界情勢のなかでも、仏陀の教えを守り、つまらないことに心をつかうことなく、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘もうではありませんか、道の果実を得ようではありませんか。
仏陀は言っています。時間を超えて、この教えの通りに行う者は、わたしとともにいると。それでは皆様の人生が豊かなものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。
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