2012年11月30日金曜日

成功哲学ーブッダの教えⅤ

 おはようございます。
日田市天ヶ瀬町には、慈恩の滝観音の滝という仏教に由来した名前がついた滝があります。高塚愛宕地蔵尊、藪不動尊、顕徳坊尊など日田市の方がいかに信仰が深いのかが感じられます。「観音経を語る」(大法輪閣出版)で観音信仰を説いたのが、大阪万博の「太陽の塔」を制作した岡本太郎さんのお母さんである岡本かの子さんです。観音経については、後日書きますが、先生の短歌をご紹介します。

「としどしに
わが悲しみは
深くして
いよいよ華やぐ
いのちなりけり」ー岡本かな子ー

日田市天ヶ瀬町合田にある観音の滝(国道210号線沿い)


中村 元訳「仏陀のことば」ースッタニパーター岩波文庫より

「聖者は誠実であれ。傲慢ではなく、いつわりなく、悪口を言わず、怒ることなく、よこしまな貪(むさぼ)りとものおしみとを超えよ。

安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

うそをつくようにひきこまれるな。美しい姿に愛着を起こすな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

古いものを喜んでならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者(妄執)にとらわれてはならない。

わたしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼び、越えがたい汚泥であるという。

バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地を(安らぎ)に)立っている。かれは一切を捨て去って、「安らかになったひと」と呼ばれる。」  スッタニパータ941~946


聖者という言葉をリーダーあるいは事業家、政治家に置き換えると、その人の人格が自然に見えてくるものがあります。傲慢で欲望にみちた顔をしている人に気をつけなければならない。また美しい姿をしている人に、魂を奪われるなと申し上げたい。政治家や事業家は、自分の欲望のために仕事をしてはいけない。世のため、人のために、どうすればよいかを具体的に提起し、実行していくのが仕事なのです。国民の公僕であることを忘れてはならない。

2012年11月29日木曜日

成功哲学ーブッダの教えⅣ-

 おはようございます。
昨日、日田市天瀬町の顕徳坊尊に参ってきました。江戸時代後期に出羽の国米沢領沢村(現在の山形県米沢市)の顕徳坊というお坊さんがこの地にたどりつき、湯山村に永眠したのであるが、信仰と修行に生きた無冠の僧です。180年前より、村民たちが日々の苦しみ、悲しみなどの諸々の願望をお願いし、ご加護ご利益をいただく霊験あらたなるところとなったのです。すぐ近くに、高塚愛宕地蔵尊があります。

天瀬町湯山長美野にある顕徳坊尊、日田市市内一望できます。
 
 
それでは、スッタニパータより
ブッダに「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」とたずねると、

「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、-これがこよなき幸せである。

適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願をおこしていること、-これがこよなき幸せである。

深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、-これがこよなき幸せである。

父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、-これがこよなき幸せである。

施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、-これがこよなき幸せである。

悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、-これがこよなき幸せである。

尊敬と謙遜と満足と感謝と適当な時に教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。

耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の〈道の人〉に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。

修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを体得すること、-これがこよなき幸せである。

世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、-これがこよなき幸せである。

これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。ーこれがこよなき幸せである。」

「スッタニパ-タ」258~269 中村 元訳「ブッタのことば」岩波文庫

ブッタは人生において幸福になるためにどうあればよいかをすべて答えています。このなかに安らぎを体得することと述べていますが、安らぎとは、ニルバーナ(静寂)を言います。静寂をえるためには、座禅をすることが最も良い方法です。顕徳坊尊の帰りに、天ケ瀬温泉の天龍荘にお寄りしましたが、ここの湯は、日本百名湯に選ばれています。大庭社長さんに、温泉禅を教授しました。温泉につかり、座禅をするのです。5分前後で充分です。これを繰り返しますと、体の血行はよくなり、こころがゆったり落ち着いてきます。最高の寂静の世界を味わえます。ぜひお試ししてみてください。

2012年11月28日水曜日

成功哲学ーブッダの教えⅢ-

 おはようございます。
「成功」という言葉を言うと、最近の傾向として身を引く人がいますが、成功とは、「ここざしを成し遂げること」と定義すれば、成功という言葉を自分のものにすべきだと思います。そうしないと自虐的な自閉症に陥ってしまうからです。まずは言葉から逃げないことです。そして宇宙・自然界の法則は、成功したいと思う人に成功が訪れます。

成功するには、三つのことが必要です。まず自分自身が努力することです。努力に勝る天才はいません。努力することに喜びを感じることです。次にほかの人の力を素直に借りることです。そしていつも感謝することです。そして宇宙の神仏に祈りを捧げることです。天はそのような人をほっておくことはありません。

パラリンオリンピックの水泳100m背泳ぎで、優勝しゴールドメダリストになった秋山里奈さんは、絶望のどん底から立ち上がり、三度目の挑戦で、栄冠を勝ち取りました。まさに勝利者であり、成功者であるのですが、オリンピックでの優勝が目標だったので引退し、社会人として働くことを目標として次のチャレンジの表明をしていました。彼女が水泳で頑張ったことで、どれだけ多くの方が勇気づけられたことでしょう。このような行為こそ、自利利他行だと思います。

人生の成功とは、まさに階段を上るがごとく一段一段踏みしめて、自分の目標あるいはこころざしに向かって努力し、進むことではないでしょうか。日田市の慈眼山永興寺(国指定重要文化財の十一面観音立像などが安置されています。)と大原八幡宮の階段をご紹介します。

慈眼山永興寺の階段

大原八幡宮の階段(初詣に大勢の市民が訪れます。)


中村 元先生訳の「ブッダのことば」(岩波文庫)より

「あらゆるものにうち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、ー諸々の賢者は、彼を(聖者)であると知る。

智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執着から脱して、荒れたところがなく、煩悩の汚れがない人、-諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、-諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然としてそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、-諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。」         
                                           スッタニパータ211~214

じっくり読むと、ブッダの姿が見えてきます。成功者は、聖者を目指しているし、人生の究極の目標は仏陀(悟った人)ではないでしょうか。階段を一段一段上るがごとく、一歩一歩菩薩道を踏みしめていくことではないでしょうか。人生や経営で迷っている人はHPよりお問い合わせできます。


















2012年11月27日火曜日

成功哲学ーブッダの教えⅡ-

 おはようございます。
先日、日田市北友田にある岳林寺の紅葉を見にいきましたが、境内にパワーを感じませんでした。岳林寺は、後醍醐天皇が1342年に九州で唯一の勅願寺として建立したもので、山門の屋根瓦に菊の紋章(天皇家)が入っています。寺もお店も人が来ないとさびれる。例えば、座禅会をし、みんなで作務(庭掃除など)をすれば、すぐに活力が生れると思うのですが。

岳林寺山門と境内


それでは、昨日の引き続き、ブッタの教えを、もっとも古い経典を言われるスッタニパータから見ていきましょう。

「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。

足ることをしり、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。

何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。

また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし・・・」

               「ブッタのことば」岩波文庫 -スタニパータ143~150ー

成功者とは、当然知識やスキルの能力があり、素直で、正しいことを考え、実行し、いつも言葉遣いがやさしく、柔和であり、成功しても思い上ることはありませんね。そして贅沢をしない、遊興にのぼせない。生活は質素で、聡明で、高ぶらないのです。そして他人を欺いたり、軽んじたり、悩ましたりしませんし、そのように努力しています。

数人の倒産した中小企業の経営者を見てきましたが、共通しているのは、女をつくる、飲みに行く、いわゆる「飲む、打つ、買う」の三拍子がそろっている方が多い。飲むとは、スナックやクラブに入り浸る、打つとは博打に手を出す、取り立て屋から腕の骨を折られた人もいた。そして買うとは、女に手を出す、のぼせているので女からむしりとられていることに気づかない。

中村 元先生の調査によりますと2500年前のインドでも、このようなことがあったらしく、人間はある意味進歩していない。しかし仏陀のいうように自戒し、無量の慈しみのこころを持って生活すれば、失敗することなく、幸福な人生を送れると思います。

2012年11月26日月曜日

成功哲学ーブッダの教えⅠー

 おはようございます。
20代後半よりアメリカの実用主義哲学であるナポレオンヒルマーフィの書物を読んできましたが、その根源は聖典にあると思っています。いわゆる「成功哲学」と言われるものですが、成功とは一体何なのでしょうか。経済的にも精神的にも豊かで、健康で、家庭は幸福に満ち溢れ、何不自由なことがない状態とも言えますし、自分の目標やこころざしを成し遂げることとも言えます。

誰しもが失敗することではなく、成功することを願っていますし、なんどもなんども失敗しても、最後は成功することもあります。敗北者ではなく、勝利者になりたいとみんなが思っています。競争社会のなかでの相対的勝利者ではなく、真の勝利者であり、成功者である「哲学」ブッタは語っていることを皆さんにご紹介したいと思います。

仏陀である釈迦牟尼の言葉を編纂したのは、東京大学教授の中村 元先生です。先生のご尽力がなければ、世界は仏陀の言葉を読むことは難しかったと思います。中村先生に感謝しながら、先生がNHKラジオの「こころをよむ仏典」でお話されたものが、CD(NHKサービスセンター)と書籍(岩波書店)になっています。初心者に読みやすいのは、東京国際仏教塾の講師でもあります中野東禅先生「『仏陀の肉声』に生き方を問う」(小学館新書)が今年の十月に出版されていますのでお薦めします。それではブッタの声に耳を傾けて下さい。声を出して読んでください。

仏典をよむ1仏陀の生涯(岩波書店)・ブッタのことば(岩波文庫)より

「わたしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行い難く、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげよう。しっかりとして、堅固であれ。

村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。罵られても、こころに怒らないように注意し、敬礼されても冷静に、高ぶらずにふるまえ。

たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。婦女は聖者を誘惑する。婦女をして彼を誘惑させるな。

淫欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、もろもろの生きものに対して、敵対することもなく、愛着することもない。

『かれらとわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である』と思って、わが身と引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。他人をして殺させてならぬ。

凡夫は欲望と貪(むさぼ)りとに執着しているが、眼(まなこ)ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ。

腹を減らして、食物を節し、少欲であって、貪ることなかれ。かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。」ースッタニパータ701~707ー

解説は控えさせてもらいます。なぜなら二千五百年前に語ったブッタの言葉が身に染みてくるまでじっくり読んでほしいからです。

このブッタの教えを経営理念として取り入れ、成功しているのが稲盛和夫氏が創業した京セラグループです。経営や実業の世界で成功するには、稲盛和夫氏が語っている成功哲学を身につけて、同時に実業家は勘定ができることです。このことは、ブッタは「シンガーラ(青年商人)への教え」で語っています。どんな倫理道徳の研究会で学ぼうが、宗教団体に入ろうが、真の哲学と勘定を身につけなければ、業績は伸びないことをことをお伝えするともに、勘定ができても哲学(理念)なき個人も会社も滅んでいくのが世の常です。

昨日は、「日田掃除に学ぶ会」で、小野公民館のトイレ掃除に参加しました。下記の写真のようにへりくだって、掃除をする習慣を身に着ければ必ず人間として成功します。

日田市小野公民館での掃除に学ぶ会の活動


参加された皆さんと共に、掃除ができる場所と機会を提供された方に感謝を申しあげます。

2012年11月22日木曜日

般若心経についてⅡ

 おはようございます。
昨日は、西日本新聞に、日田市夜明関町の行徳家住宅の紅葉の記事が載っていたので、久しぶり行ってきました。行徳家は代々、医業を家業としていました。1842年に立てられた住宅が国指定重要文化財に指定され、保存されているのであります。室内に、長三州の書と言われる、経世堂と書いた掛け軸がありますが、これが医院名だったそうです。写真で紅葉を楽しんでください。

行徳家住宅の前景

行徳家住宅庭園


さて、昨日に引き続き、11月18日の中野東禅先生の般若心経講義を思い出しながら、書き綴りたいと思います。この世の目に見えるすべてのもの(この行徳家の紅葉)や私たちの考えている事もすべて「空」だという事です。つまり現象はすべて変わりゆくものでありますので、こだわらないことであります。

生きているという事は、一人一人、さまざまな苦労を味わいます。その苦しみを救ってくれるお経が「般若心経」です。生老病死という四苦という苦しみがあります。きていくこと自体に苦しみがあり、しわができ、加齢臭が匂ってくるようにいてきますし、病院には気の年寄ばかりで、やがて誰もがさけられないが訪れます。

さらに愛別離苦怨憎会苦求不得苦五蘊盛苦とう苦しみ(合わせて四苦八苦と言います)があります。愛する人と別れないといけないことがありますし、会社では嫌な人と一緒に仕事をしなければならないし、欲しいものは手に入らない、思うようにならいし、最後の五蘊は、先生がしっかり教えてくれましたが、人間は、という肉体や物質を見て、という能力で感じます。そしてで記憶し、記憶されたものと照合します。次にで判断し、で、自分の意見や行動を意識します。人間の脳はこれをたった2,3秒で行うそうです。

逆に意識がいつも、たとえば女性のこと、男性のことを意識していると、五蘊から逆回りで、色は、いつも女性や男性を見ているのです。色ごとにのぼせるとはこのことかもしれません。だから悪いことを考えている人はいつも悪いものばかり見て、良いことを思っている人はいつも良いものを見ますね。

現実世界も意識も変化して行くものということがわかったなら、私たちの自我や、物事にこだわる必要はないのです。こだわらないでいられる智慧が「空の智恵」なのです。つまり四苦八苦という苦しみは過ぎ去るものだからこだわらないとらわれないという事ではないでしょうか。

「般若心経」を読誦したり、写経したりするのは、このお経のなかに力があり、災難や煩悩・恐怖という悪魔に立ち向かうとき、「空の智慧」があるのです。あの夏目雅子さんが演じた玄奘三蔵(三蔵法師)は17年間もインドをまわるとき、いつも般若心経をくちづさみ、いかなる災難からも守られていたのです。あなたも毎日、般若心経を読誦してみませんか。人生や経営で難題を抱えている方は、私のホームページにアクセスしてお問い合わせよりメールして下さい。


 
























2012年11月21日水曜日

般若心経についてⅠ

 おはようございます。
中野東禅先生の講義のテキストは、四季社の「仏典スクール1の初めての『般若心経』」でした。このテキストの参考資料1の般若心経と玄奘三蔵のなかに、わかりやすく書いていますので、抜粋したいと思います。

「お釈迦様の教えの根幹は「縁起」という真理なのです。

あらゆるものは条件の調和によって有るということです。宇宙も、太陽系も、地球も、人間の命も、心の動きも、人間関係も、何もかも「縁起」です。

条件の調和である以上は条件は変わります。それを「無常」といいます。同じ状態でありえないという事です。さらに「無我」といいます。条件の調和であり、変化する物である以上は、変わらない実態的な「自我」があるわけではないということです。

それをお釈迦様は「空」といいました。有るようでないもの、無いようであるもの、とらえ所のないもの、とらわれ様のないものという意味です。したがって現象している今・ここ・私をより良く生き、そこで心の開放を修行しつづける事が最も真実な生き方ということになるわけです。」

お釈迦様の膨大なお説教のなかから「空」の教えを再編集したのが「般若経典群」で、「大般若経」に包括されていますが、もっとも基本をなすお釈迦様の直説部分が「般若心経」なのです。

ですので「縁起」がわかり、「空」がわかると怖いものは何もありません。「死」も受容できると言えましょう。

講義中の東禅先生



摩訶 般若 波羅蜜多 心経

大いなる 叡智によって 安らぎの岸にいたる修行の 心要の 仏のおしえ

「心経 しんぎょう」の発声を先生に指導を受けましたが、節があると、厳かな気持ちになりいいですね。

観自在菩薩とはじまるのですが、あらゆる方向に顔を向けた神だそうです。菩薩は仏の一歩手前の悟りであり、青年釈迦であり、前世(ジャータカ)の釈迦であり、あなた自身であり、仏舎利国の菩薩であり、修生(人間)であるとの説明がありましたが、観音菩薩や地蔵菩薩をよく見ますが、人間は菩薩道を励まなければ、巷を見渡せばわかるとおり、餓鬼畜生になりさがる動物だと思います。

この日はここまでの講義で、座禅にはいりました。まず左右にゆっくり、大きく体を動かして(伸ばす)、中心の位置を決め、息を下腹に大きく吸い込むため、背筋が伸びて、凛とした座禅ができるとご指導をいただきました。終了後、後片付けの作務をし、先生がタクシーを呼んでいるので稲毛駅まで送ってくれるということで、同乗させていただき、お話していましたら、むかしラジオのこども相談室をしていた無着成恭さんが曹洞宗の僧であり、今は大分県に赴任しているお聞きし、びっくりしました。国東町におられるようですので、行ってみたいと思います。

中野東禅先生のお話はわかりやすく、おもしろく、人間味があふれ、まさに仏縁をいただいたことに感謝していたします。