2014年6月27日金曜日

「男の厨房」そのいち

 おはようございます。
日田市光岡公民館からのご案内で、「男の厨房」があると書いていたので、これって終活の一環だと思い、応募し、早速昨日が第一回目でした。なぜ、終活の一環かというと、お料理は奥さんに任せている方がほとんどですが、もし、奥さんが病気になり入院したり、あるいは認知症になったら、料理もできないで、スーパーやコンビニの惣菜ではあまりにも虚しいとおもいませんか。ひょっとし熟年離婚もあるかも、どうする。だから終活の一環で料理ができるようになるために「男の厨房」に参加しました。

参加者への説明と自己紹介

今年の参加者は、12名ですが、新人は私だけで、2年目、3年目の方々がほとんどで、先輩に教わりながらの料理実習でした。昨日は、①シャキシャキレタスのシーザ―サラダ、②小松菜の中華炒め、③キャベツと卵のニース風サラダ、④のりの鶏肉はさみ焼き、⑤わかめ衣のから揚げを2名づつでつくりました。

料理風景


私は、「シャキシャキレタスのシーザ―サラダ」を先輩と作りましたので、作り方を書きます。まずはご夫婦お二人の場合で、1、レタス(二分の一)を手でちぎり、水洗いします。次にたまねぎ(四分の一)を薄切りにし、冷水にさらし、水けをきります。2、ベーコン(2枚)を焼き、1㎝幅に切ります。3、ミニトマトを半分に切ります。4、温泉卵(2個)を作ります。卵のおしりに針をさし、水が沸騰する寸前で止め、冷水に浸しておきます。殻をむきます。

次に器にレタスとたまねぎを盛ります。その上にベーコンをのせます。そして温泉卵をのせて、コーンフレーク(10g)をふりかけ、シーザードレッシングをかけて、出来上がりです。この日一番おいしかったのは、「シャキシャキレタスのシーザーサラダ」でした。

5品の出来上がり

公民館長さんと佐々木先生と、全員でおいしくいただいております。食べきれない分はタッパーに入れて奥さんにお土産です。

難しかったのは、たまねぎの薄切りですね。包丁さばきは年季がいりますね。次回が楽しみですね。皆さんも作って食べてみてください。それでは皆様のご健康をお祈りします。南無 徳温禅月。






2014年6月25日水曜日

死んだらどうなるの?

 おはようございます。
かねてより、死後の世界についての書物を読んできましたが、臨死体験はあまり信じられないですね。なぜなら、それは脳が働いている可能性が強いからです。仏典や聖書はどう書いているのかということですね。

まずは、人間も動物も死ねば、肉体は朽ちて行きます。これは歴然とした事実です。しかし、兄が亡くなる時、あきらかに何かが抜けて行ったと思いました。その後、心臓が止まったのです。核家族化の大きな弊害は、死と向き合う機会がないと言うことです。

少なくとも、三世帯くらいで住んでいれば、おじいちゃんやおばあちゃんの死を看取ることがありますが、現代社会は、肉親の死に接する機会が非常に少ないのです。ましては自宅ではなく病院で死を迎えますので、なおさら死に接する機会がないのです。

子どもの時にそのような経験がある人は、いのちの大切を肌身で感じることができますが、そのような機会がないと生と死が希薄になり、生と死を軽率に扱うようになります。それが都会における「直葬」などの葬儀形態にもあらわれています。


聖書は聖霊の書物と訳したほうがよいかもしれませんね。霊についてキリストが実によく述べています。仏典は人間が生きる知恵ですが、仏陀が霊について無記と表現さていますが、仏陀の神々や悪魔との対話を読んでいると明らかに霊的世界があることを示唆しています。

大事なことは、人間の生命を構成しているものは、肉体と精神(こころ)と魂(霊)であるという前提を理解しないと、死後、肉体も思考する精神も朽ち果てますが、兄の死の、あきらかに抜けて行ったものはこそ、魂(霊)だと思うのです。

当然は霊は、見えません。いわゆる気体ですね。ですから霊は思考したりしません。純粋無垢のものです。ただ神仏のみもとに向かうのです。輪廻もしません。なぜなら記憶もないからです。生前信仰のあつかった方々は、阿弥陀様やあるいはクリスチャンならキリストのみもとにいくのだとおもいます。

では信仰のないかたは、行き場がないのでさまよいます。悪霊化する可能性があると思うのです。聖書には、神の霊と、悪霊と、人間の霊を言っています。そして悪霊は人間のなかに入り込んでくるのです。

多重人格とは、悪霊が憑依したものであり、犯罪者もまた悪霊の虜になっていることが多々あるのです。自力では悪霊を追い出すことは不可能です。ここまで到達した人が、仏陀でありキリストです。ですからその御名が必要なのです。

今日はこれまでに体験したこと、読んだことなどから思いのままに書きましたが、唯物論とお金教に毒されていると、生と死を理解することはできません。この世の天国と地獄をあじあうのも、あの世の天国あるいは地獄にいくのもあなた次第だとおもいませんか。

それでは皆様が良き人生を送り、安らかな死を迎えることができますようにお祈りします。南無 合掌礼拝 徳温禅月。






2014年6月23日月曜日

釜ケ瀬せせらぎコンサートより

 おはようございます。
大分県日田市の北西部に小野があり、小鹿田焼の里へと向かう。その手前3キロあたりから右に入ると、殿町釜ヶ瀬という地区がありますが、一昨年の北部九州大豪雨で、川が氾濫し、田畑が浸かり孤立しました。2年が経ち、やっと復旧し、美しい釜ヶ瀬渓谷の景観が戻ってきました。


釜ヶ瀬の古民家にアトリエ美・百代相をおく藤井美相さんと仲間たちそして地区の皆さんが、復旧を祝っての「釜ヶ瀬せせらぎコンサート」を開いてくれました。藤井先生の作品もたくさん展示されていました。





コンサートに前座は、天ケ瀬町地域おこしの「輝(キラキラ)ほいサーズ」の皆さんのスコップ三味線で、なかなか本格的でした。一流の先生に指導を受けています。


先生で~す。

そして、博多を本拠地にしているNabeさんの語りと歌に酔いしれました。(酒は飲んでいませんよ。)人を楽しくさせたり、愉快にさせてくれる、気持ちよくさせてくれる人が世の中にいるんだなと感心しました。


1958年頃の曲から70年代、80年代の歌を歌ってくださり、青春の思い出が甦ってきました。感謝で~す。


Nabeさんは、8月の津江フェスティバルにも来てくださるそうで、絶対に行く行く。


ついに踊りだした財津先生、見る井上先生、笑っている美相先生で~す。とにかく楽しいコンサートでした。合間にせせらぎが聞こえ、すばらしいところです。企画していただいた藤井先生をはじめ皆様に感謝を申しあげます。おんせん県おおいた日田市殿町窯ヶ瀬より。







2014年6月18日水曜日

「仏教聖典」を読む~かたよった生活~

 おはようございます。
生活索引では、「かたよった生活」となっていますが、本文は第4節「かたよらない道」の前文に書いていることです。

「道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。」~「仏教聖典」(仏教伝道協会)P60-6行~

30年ほど前、尊敬する先輩が、しみじみとこういった言葉を思い出しました。「人間は好きで亡びるんだよ。酒好き酒で亡び、女好きは女で亡び、仕事好きは仕事で亡びる。火の車、おのがつくりておのが乗りゆく。」

好きと言うよりは「欲」で亡びるんですよね。ASKAが覚醒剤に手をだしたのも、所詮、快楽と言う欲望、言い訳として創作活動に集中できるからなどと言っていますが、そんなものに手を出さなくても素晴らしい活動をされているアーチストが圧倒的に多いのです。ましてや女が絡むと事態はもっと深刻になります。


現代社会は、拝金教もしくはお金教に洗脳され、マインドコントロールされてるのです。これについては、苫米地英人さんが「宗教の秘密」で詳しく書いていますのでご一読してください。この本は、世界の宗教をよく言い当てています。

たとえば、株価があがると株を買ってない人でも口にする、それもエコノミストやアナリストという人の発言をそのまま、うのみにして人に言う、実はメディアからのコントロールされているんです。そして民衆は耳をそばだてる。儲かるという欲望が動くわけです。そしてほとんどの人が損をし、一握りの人達が、儲かる。

欲望を仏教では煩悩とも言いますが、食欲、性欲、所有欲、名誉欲など際限なく欲望に翻弄されているんではないでしょうか。美食と言って、どこまでもおいしいものを求めて食べにいく、いい女、いい男がいると、既婚者であることも忘れて誘惑する。あぁ果しない欲望の虜たちよ。

二つめに書いている「自分の心身を責めさいなむ苦行の生活」と書いていますが、現代の日本人あるいは宗教人でこのような人は少数ですよね。「易行」とことばに毒されて何の修行もしない僧侶が多々いることは現実で、東南アジアでは日本人の僧侶は僧侶として認めていないのです。

自分の心身を責めさいなむという行為によって鬱病になるかたが多いのも事実です。しかし釈尊は答えを述べています。

「この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。」

まずは、仏教聖典を読むことだと思います。そしてこの国際社会のなかで偏らない思考をもつために「聖書」も読んでください。また浄土真宗の人も、座禅をしてください。禅宗の人は、念仏もあげてください。また、ひとりのベストセラー作家にのぼせるのではく、井沢元彦さんや苫米地英人さんなどの本も幅広く読んで見てはどうでしょうか。中道とは、そのような行為から始まるのではないでしょうか。

それでは皆様が偏った生活をしないようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌礼拝 徳温禅月。






2014年6月17日火曜日

「仏教聖典」を読む~正しい人生観~

 おはようございます。
先日、FBに投稿された動画をみていましたら、「胎内記憶」についてのものでした。ただ後半、天から舞い降りてお母さんのお腹のなかに入ったという再現描写は、あたかも既に子供の姿であるように描いていますが、それは「魂」が胎児の中に入ってから脳が働き、イメージされたものと思います。

臨死体験のほとんどはそのようなことだといえるのですが、かといって、霊あるいは魂があるのかないのかはお釈迦様が言わなかったのは、当時の事情と目に見えないものについてあまり発言しなかったのですが、「神々との対話」「悪魔との対話」という原始仏教の経典「サンユッタ・ニカーヤ」中村 元先生によって訳されてことによって、眼に見えない世界が明らかになったと私は思っています。

お釈迦様が話された神や悪魔は肉体を持ったものではないことは誰も推察できます。つまり神や悪魔は、霊だということです。つまり霊は眼には見ませんが存在しているのです。イエス・キリストは、これを聖霊と悪霊と表したのです。ですから人間の生命は、肉体と精神(こころ)と魂(霊)によって成り立っていると思うわけです。



仏教聖典のなかの、今日の生活索引は「正しい人生観」です。人生観とはこの現実です。この現実には、生老病死があり、縁起と言う原因と結果があり、世の中は常に変化するという無常があるのです。

「人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
・・・・
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、またこの心も経験と知識とによって育ったものである。だから、この身の、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
・・・・
すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。だから、うつり変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまとことの道理であり、これだけは永久に変わらない。」~「仏教聖典」(仏教伝道協会)P43・5行~

現実を直視し、これを解明した(悟った)方がお釈迦様なのです。霊とは変わらないもの、変えられないものですが、変えることのできる現実(原因)は、変えることによって、より豊かに、幸せな、正しい人生を送ることができるのです。その努力をするのはあなたです。

それにもまして、永遠に変わらぬ神仏(法)への信仰があれば、神は自ら助くる者を助くるのです。人間的努力をしない者に、神仏が手を差し伸べることがありましょうか。また逆に不信者に神仏が働くことは絶対にないと思いますし、目に見えない世界(4次元)には、悪魔・悪霊の働きもあり、その虜になるのです。宗教と言う仮面をかぶった悪魔も登場してくるのです。(オーム真理教など)

「仏教聖典」を毎日読む人は、正しい人生観が醸成されていくのです。ぜひこの本を手に取って、朝に夕に読んでください。そうすればあなたの人生は輝き始めます。くだらぬ本や情報、新興宗教に翻弄されるのは、あなたのレベルがその縁をつないでいるのです。

それでは皆様の人生が豊かなものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌礼拝 徳温禅月。





2014年6月16日月曜日

井沢元彦さんの講演の聴いて

 おはようございます。
14日に大分県日田市の日田ロータリークラブの50周年記念式典があり、記念講演で作家の井沢元彦さんが「歴史から見た日本人の危機意識」と題してお話をされました。私は、この講演のタイトルを「『言霊』~歴史から見た日本人の危機意識~」にした方が良かったのではないかと思いました。


井沢さんの20数年前から、持論である日本人の言霊思想が、危機意識を阻害しているということを書いていますが、何より、井沢さんが世界の宗教を勉強してきていることは敬服すべきだとかねてよりおもっていて、井沢さんのお話が聴けるのは幸いなことでした。

井沢さんの著書である「言霊」、「逆説の日本史」そして「井沢元彦の世界宗教講座」などを読んだ方は、講演を聴いていてすらすらと頭の中に入っていったと思います。まあ、初心者の方も楽しく、聞けて良かったと思う次第です。

井沢さんは、日本古来から続く言霊思想が、日本人の意識や言動を縛っていると言っているのですが、「言霊」とは一体何でしょうか。

ウキペディアには次のように書いています。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。
これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。

井沢さんは上記の概念をよく理解されたうえに、現実の日本の歴史が言霊思想に影響されていたことをお話したのですが、言葉というのは非常に重要で、前向き、積極的なことを言っていると良い結果が、後ろ向き、消極的なことを口にしていると悪いことが起きるとよく言われます。


それは一言言ったからでなく、繰り返し言うと潜在意識の奥深くにある万物につながる共有意識に入り、連鎖していくから、口にしたことが実現されていくわけです。私はそのことと「言霊」は違うと思っています。

ウキペディアに、言葉に宿る霊的な力、「言魂」とも言うと書いてある通りですが、神の言葉に霊力があると思っています。つまり神の御言葉とか、仏の御言葉とか言うのですが、神道でいう祝詞や、仏教でいう真言・陀羅尼、キリスト教ではヨハネの福音書でいう「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と同一のことです。

我々凡人の言葉は、たわいのないものですが、古来から続く、神道の祝詞や仏教の真言・陀羅尼には霊力があることを知っておかなければなりません。なぜなら霊の領域は、4次元であり、人間は3次元の存在ですから、4次元に包摂され、影響を受けているのです。

「般若心経」はそのことを言っているのです。「空」とは霊の世界であり、4次元の世界であり神仏の世界なのです。尊敬するお坊さんたちもたくさんいますが、なまくら坊主たちはそのことすら理解していないのが現実ではないでしょうか。

日本のお坊さん達が肉的生活を送って居る限り、精神の荒廃に歯止めはかからないと思います。戒律など守れるかと言っていると、必ず罰があたると庶民は思っています。酒を飲まない、妻をめとらない、私欲をもたないということができないならお坊さんをやめて(還俗)、したらどうでしょうか。

まあお話が脱線しましたが、井沢元彦先生の著書を、再度読み返したくなった講演会でした。ご企画しただいた日田ロータリークラブの皆様に御礼を申しあげます。

それでは皆様に豊かな恵みと健康がもたらされますようにお祈りいたします。南~無 合掌 礼拝 徳温禅月。





2014年6月13日金曜日

終活フェアとエンディングノートの書き方

 おはようございます。
6月11日夜7時よりOBS大分放送「旬感3ch」で、「終活フェアとエンディングノートの書き方」が放送されました。私達のボランティアグループ「終活を楽しむ会」のアドバイザーである松尾律子終活カウンセラーが生出演し、エンディングの作成の意義と書き方について、キャスターの方々とお話しました。この番組は、大分の旬な情報をお届けしてくれるのですが、このテーマもわかりやすく、よく構成していて感心しました。スタッフの皆様に感謝を申し上げます。


終活フェアは全国各地で開催されていると思いますが、地元の業者の方々が協力して開催しています。お葬儀やお墓のこと、また遺産相続のことなどをシニア世代の方々が見れる、聞かれることは大変よいことだと思います。

               終活フェアでの祭壇ご遺影体験と入棺体験です。


最も大事なことは、自分の人生を振り返り、今までにどんなご縁があったのか、どんないいことや辛いことがあったのかをめぐらし、書き留めておくことです。それをエンディングノートと言うのですが、いわゆるライフプランノートでもあるのですが、決定的に違うのは、人生の終焉=死を意識していることです。



               真剣に書き込む飯倉キャスターさんです。

これまで生きてきた道程は自分史につながりますし、妻や子や孫、そして友人に伝えておきたいことなどを書き留めておきます。自分の生と死に向き合う絶好の機会がエンディングノート作成にはあるのです。
              松尾カウンセラーのオリジナルエンディングノートです。

松尾カウンセラーのエンディングノートの作成には、4年前にこの世を去った景流寺のご住職で小学校の教諭をされていた浅海岬先生が、大学ノートにびっしりと書いていたことがきっかけです。先生の人生の総まとめと引き継ぐべき事柄が書かれています。
               
               故浅海岬先生と先生のエンディングノートです。



終活やエンディングノートが一過性のものではなく、すべての人が、人生をより豊かに、とくに精神的に充実したものにするために多くの方が取り組んでいただきたく思っています。一般社団法人終活カウンセラー協会の認定を受けた終活カウンセラーが全国におられますのでご相談されることをお薦めします。また終活支援活動は各地の公民館活動の一環でとして取組ようにもなりました。


それではOBS大分放送の関係者の皆様、終活支援活動をされている公民館の皆様、そして人生の集大成にむけて、人生の再設計と終活活動をされている多くの皆さんのご健勝をお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月。(尚、お写真を無断にて掲載しましたことをご了承くださいませ。)