2014年6月25日水曜日

死んだらどうなるの?

 おはようございます。
かねてより、死後の世界についての書物を読んできましたが、臨死体験はあまり信じられないですね。なぜなら、それは脳が働いている可能性が強いからです。仏典や聖書はどう書いているのかということですね。

まずは、人間も動物も死ねば、肉体は朽ちて行きます。これは歴然とした事実です。しかし、兄が亡くなる時、あきらかに何かが抜けて行ったと思いました。その後、心臓が止まったのです。核家族化の大きな弊害は、死と向き合う機会がないと言うことです。

少なくとも、三世帯くらいで住んでいれば、おじいちゃんやおばあちゃんの死を看取ることがありますが、現代社会は、肉親の死に接する機会が非常に少ないのです。ましては自宅ではなく病院で死を迎えますので、なおさら死に接する機会がないのです。

子どもの時にそのような経験がある人は、いのちの大切を肌身で感じることができますが、そのような機会がないと生と死が希薄になり、生と死を軽率に扱うようになります。それが都会における「直葬」などの葬儀形態にもあらわれています。


聖書は聖霊の書物と訳したほうがよいかもしれませんね。霊についてキリストが実によく述べています。仏典は人間が生きる知恵ですが、仏陀が霊について無記と表現さていますが、仏陀の神々や悪魔との対話を読んでいると明らかに霊的世界があることを示唆しています。

大事なことは、人間の生命を構成しているものは、肉体と精神(こころ)と魂(霊)であるという前提を理解しないと、死後、肉体も思考する精神も朽ち果てますが、兄の死の、あきらかに抜けて行ったものはこそ、魂(霊)だと思うのです。

当然は霊は、見えません。いわゆる気体ですね。ですから霊は思考したりしません。純粋無垢のものです。ただ神仏のみもとに向かうのです。輪廻もしません。なぜなら記憶もないからです。生前信仰のあつかった方々は、阿弥陀様やあるいはクリスチャンならキリストのみもとにいくのだとおもいます。

では信仰のないかたは、行き場がないのでさまよいます。悪霊化する可能性があると思うのです。聖書には、神の霊と、悪霊と、人間の霊を言っています。そして悪霊は人間のなかに入り込んでくるのです。

多重人格とは、悪霊が憑依したものであり、犯罪者もまた悪霊の虜になっていることが多々あるのです。自力では悪霊を追い出すことは不可能です。ここまで到達した人が、仏陀でありキリストです。ですからその御名が必要なのです。

今日はこれまでに体験したこと、読んだことなどから思いのままに書きましたが、唯物論とお金教に毒されていると、生と死を理解することはできません。この世の天国と地獄をあじあうのも、あの世の天国あるいは地獄にいくのもあなた次第だとおもいませんか。

それでは皆様が良き人生を送り、安らかな死を迎えることができますようにお祈りします。南無 合掌礼拝 徳温禅月。






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