おはようございます。
九州も冷え込んできました。昨日は、大分県の深耶馬渓に紅葉を観に行きました。なぜ、ひとは夕陽や紅葉にこころを和ませ、癒されるのでしょうか。もうすぐ散りゆく紅葉にこそ、自然の、木々のいのちを感じるのでしょう。
昨日は葬儀の形態について書きましたが、密葬であろうが、家族葬であろうが、一般葬であろうが、ご自分の想いをこめた葬儀にしてほしいなと思っています。私はそれを自分葬となずけました。すくなくとも残されたご家族にすべて委ねるのではなく、自分の想いが反映された葬儀ですね。
それでは、私の自分葬を書いてみましょう。おかげさまでお友達も多いので、葬儀場を使った一般葬をします。
祭壇は飾りません。3m~5mの写真と、スクリーンが前面にあり、写真は一番気にいっている講演会での顔写真です。
司会者が葬儀について説明し、スクリーンに私が歩いた人生の映像が現れます。バックミュージックは中島みゆきさんの「時代」です。
司会者は静かに語ります。それで終わると、私が参列者の皆さんへのメッセージを生前に吹き込んでおきますので、それを流します。
弔辞はすべてお断りします。次にご焼香の時は、CDで南無妙法蓮華経観世音菩薩普門聞偈、大悲心陀羅尼、消災妙吉祥陀羅尼、摩訶般若波羅密多心経が流れ、そして最後に参列者の皆さんと、パーリ語の「ガーテー ガーテー パーラガーテー パーラーサンガテー ボーディソワハー」と、合掌礼拝で終了します。
私はすでに受戒していますので、お坊さんも出席しなくてもいいですし、戒名もありますので、心配いりません。まあ、こんな自分葬もいいかなと思いつつ、妄想してみました。皆さんも自分なりにアレンジした葬儀をエンディングノートに書いておきませんか。どうしてよいかわからないときは全国の終活カウンセラーに聞いてみてください。
それでは、終活を取り組んでおられる方が、最期の瞬間まで人生を楽しんでいただけますようにお祈りしながら、南~無 合掌礼拝 徳温禅月。
2014年11月13日木曜日
2014年11月12日水曜日
終活~どんな葬儀をするの?~
おはようございます。
昨日のブログについて、質問をされたのですが、「無宗教で特別な信仰のない人はどうなるのですか」と、行き場のない霊魂はさまようのではないでしょうか。それを死霊とか言ったのでしょう。それが悪魔に委ねられると、悪霊となり、人に害を及ぼすようになると言われています。すくなくとも、お経だけはあげてもらってほしいと思います。
以前、「エクソシスト」という映画がありましたが、悪魔祓いですね。現実にあったことだそうですので、ああ恐ろしや、恐ろしや。私は信仰を持っていますので、悪霊からの攻撃を受けたことはありません。
霊魂が存在すると思った方は、終活の一環として、どんな葬儀をしてほしいかをエンディングノートに書いておくか、終活カウンセラーに相談したり、葬儀屋さんと打ち合わせをして、生前予約をしておくのもよいでしょう。当然ご家族にお話しておいてください。
それではどんな葬儀の形態があるかを箇条書きします。
①直葬・・・葬儀をせずに火葬し、納骨する。
②密葬・・・身内だけでひそかに葬儀を行う。本来はその後で本葬(告別式)をするが、しない場合 もあります。
③家族葬・・・家族と親戚のみで執り行う。
④一般葬・・・町内や関係など一般の方の弔問する。香典葬という場合もある。
⑤社葬・・・戦後、高度成長から行われるようになった。会社の会長や社長の葬儀で、会社が実行委員長を決めて執り行う。
次に、葬儀場所による葬儀は
①自宅葬
②寺院葬
③葬祭場葬
宗教別葬儀として
①仏式葬儀
②キリスト教葬儀
③人前葬・・・無宗教の方。
基本的に神社では葬儀は執り行わない。このような葬儀の形態や場所があるのですが、生きているうちに生前葬をする方も増えているそうです。どんな内容の葬儀をしてほしいかを考えることも、残された方への負担軽減になるのではと思います。ちなみに戒名は、受戒と言って本来生きているうちにもらうものです。そうすれば高額な戒名代にならないのではと思います。
見栄や世間体ではなく、逝く人とおくる人にこころづかいした葬儀をしたいものです。それでは今をそして、必ずやってくる終焉を、楽しく生きて行こうではありませんか。皆様が心安らかでありますようにお祈りします。南~無 合掌礼拝 徳温禅月。
昨日のブログについて、質問をされたのですが、「無宗教で特別な信仰のない人はどうなるのですか」と、行き場のない霊魂はさまようのではないでしょうか。それを死霊とか言ったのでしょう。それが悪魔に委ねられると、悪霊となり、人に害を及ぼすようになると言われています。すくなくとも、お経だけはあげてもらってほしいと思います。
以前、「エクソシスト」という映画がありましたが、悪魔祓いですね。現実にあったことだそうですので、ああ恐ろしや、恐ろしや。私は信仰を持っていますので、悪霊からの攻撃を受けたことはありません。
霊魂が存在すると思った方は、終活の一環として、どんな葬儀をしてほしいかをエンディングノートに書いておくか、終活カウンセラーに相談したり、葬儀屋さんと打ち合わせをして、生前予約をしておくのもよいでしょう。当然ご家族にお話しておいてください。
千年灯り(日田市花月川にて)
それではどんな葬儀の形態があるかを箇条書きします。
①直葬・・・葬儀をせずに火葬し、納骨する。
②密葬・・・身内だけでひそかに葬儀を行う。本来はその後で本葬(告別式)をするが、しない場合 もあります。
③家族葬・・・家族と親戚のみで執り行う。
④一般葬・・・町内や関係など一般の方の弔問する。香典葬という場合もある。
⑤社葬・・・戦後、高度成長から行われるようになった。会社の会長や社長の葬儀で、会社が実行委員長を決めて執り行う。
次に、葬儀場所による葬儀は
①自宅葬
②寺院葬
③葬祭場葬
宗教別葬儀として
①仏式葬儀
②キリスト教葬儀
③人前葬・・・無宗教の方。
基本的に神社では葬儀は執り行わない。このような葬儀の形態や場所があるのですが、生きているうちに生前葬をする方も増えているそうです。どんな内容の葬儀をしてほしいかを考えることも、残された方への負担軽減になるのではと思います。ちなみに戒名は、受戒と言って本来生きているうちにもらうものです。そうすれば高額な戒名代にならないのではと思います。
見栄や世間体ではなく、逝く人とおくる人にこころづかいした葬儀をしたいものです。それでは今をそして、必ずやってくる終焉を、楽しく生きて行こうではありませんか。皆様が心安らかでありますようにお祈りします。南~無 合掌礼拝 徳温禅月。
2014年11月11日火曜日
終活~なぜ葬儀をするの?~
おはようございます。
昨今は、葬儀がなく火葬し、納骨する「直葬」という葬儀?が東京都では3割を超えていると聞きます。その背景には、核家族化の結果、人間関係が希薄していることや、信仰心や宗教心そして死生観の欠落、さらに多額な葬儀費用や戒名代への不信感などがあると思うのです。
葬儀の形態は、時代と共に変化していくでしょう。しかし、ご両親やご兄弟を亡くしたご遺族は、ご供養せずにおられないのが心情でしょう。しかし葬儀などしなくていいと言う方も増えているのは現実です。
問題は、死んだらどうなるのかを考えることから始めるべきではないでしょうか。あるいは人間の生は何によって成り立っているのか、死は、肉体と精神(思惟・思考)の停止であることは明白です。しかし、人間は肉体と精神と霊魂によって、生を維持していることは聖書にも書いています。
肉体と精神は、塵と土に戻るでしょう。では霊魂はどうなるのでしょうか。私は兄を亡くした時、臨終のそのときに、肉体から霊魂が抜けていくのを感じました。またある牧師さんの話しで、クリスチャンであるおばあちゃんが亡くなるとき、病室の天井から、「イエス様、只今あなたの身元に行きます」という声をご家族全員が聞き、ご家族もクリスチャンになったそうです。
仏教でも同様のお話を聴きました。また小学生の時、そろばん教室の帰りに、月隈公園の森のうえを火の玉が行くのを見に母に告げていたら、翌日、乞食のおじさんが亡くなったことを聞きました。これって何でしょうか。
霊魂なんて信じない人は、人間は死んだら何もなくなってしまうから、お葬儀などする必要がないと思うでしょう。また霊魂があるんだと思う人は、死後の自分の行先を決めているでしょう。クリスチャンであればイエス様のみもと天国へ、浄土真宗の方であれば阿弥陀様の極楽浄土へと。
そして見送るひとにとっては、御冥福を祈り、亡くなった方を弔うのです。そして自分の死生観を考えるのです。それが葬儀です。密葬、家族葬でもいいのです。お経は安らかにあの世に旅立つようにあげるのです。
「おくりびと」という映画を見ましたか。原作は青木新門さんの「納棺夫日記」です。青木さんが今日の問題をこのように言っています。
「仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである」~「納棺夫日記」(文春文庫)
少なくとも顕暦を過ぎたら、自分の「死生観」を持つべきだし、問い直す時ではないでしょうか。「終活」とは、このことから始まると思うのです。それでは皆様おひとりおひとりが、生と死に向かいことをお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月。
昨今は、葬儀がなく火葬し、納骨する「直葬」という葬儀?が東京都では3割を超えていると聞きます。その背景には、核家族化の結果、人間関係が希薄していることや、信仰心や宗教心そして死生観の欠落、さらに多額な葬儀費用や戒名代への不信感などがあると思うのです。
葬儀の形態は、時代と共に変化していくでしょう。しかし、ご両親やご兄弟を亡くしたご遺族は、ご供養せずにおられないのが心情でしょう。しかし葬儀などしなくていいと言う方も増えているのは現実です。
問題は、死んだらどうなるのかを考えることから始めるべきではないでしょうか。あるいは人間の生は何によって成り立っているのか、死は、肉体と精神(思惟・思考)の停止であることは明白です。しかし、人間は肉体と精神と霊魂によって、生を維持していることは聖書にも書いています。
肉体と精神は、塵と土に戻るでしょう。では霊魂はどうなるのでしょうか。私は兄を亡くした時、臨終のそのときに、肉体から霊魂が抜けていくのを感じました。またある牧師さんの話しで、クリスチャンであるおばあちゃんが亡くなるとき、病室の天井から、「イエス様、只今あなたの身元に行きます」という声をご家族全員が聞き、ご家族もクリスチャンになったそうです。
仏教でも同様のお話を聴きました。また小学生の時、そろばん教室の帰りに、月隈公園の森のうえを火の玉が行くのを見に母に告げていたら、翌日、乞食のおじさんが亡くなったことを聞きました。これって何でしょうか。
霊魂なんて信じない人は、人間は死んだら何もなくなってしまうから、お葬儀などする必要がないと思うでしょう。また霊魂があるんだと思う人は、死後の自分の行先を決めているでしょう。クリスチャンであればイエス様のみもと天国へ、浄土真宗の方であれば阿弥陀様の極楽浄土へと。
そして見送るひとにとっては、御冥福を祈り、亡くなった方を弔うのです。そして自分の死生観を考えるのです。それが葬儀です。密葬、家族葬でもいいのです。お経は安らかにあの世に旅立つようにあげるのです。
「おくりびと」という映画を見ましたか。原作は青木新門さんの「納棺夫日記」です。青木さんが今日の問題をこのように言っています。
「仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである」~「納棺夫日記」(文春文庫)
少なくとも顕暦を過ぎたら、自分の「死生観」を持つべきだし、問い直す時ではないでしょうか。「終活」とは、このことから始まると思うのです。それでは皆様おひとりおひとりが、生と死に向かいことをお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月。
2014年11月6日木曜日
藤原正彦先生の講演を聴いて~まとめ~
おはようざございます。
藤原正彦先生の講演を聴いて、再度「国家の品格」、「日本人の誇り」、「祖国とは国語」をはじめ、新渡戸稲造著の「武士道」を奈良本辰也訳や矢内原忠雄訳を読みかえしましたが、現代人が読むにはやはり「国家の品格」が理解できるし、私達に指針を与えてくれる良書だと思いました。
藤原正彦先生と「国家の品格」をウキペディアを活用して簡単にご紹介しますと、
帯封に書いてある要点がわかりやすいですね。
○資本主義の勝利は幻想 ○情緒の文明を誇れ ○英語より国語と漢字 ○論理の限界を知る ○卑怯を憎む心、惻隠の情の大切さ ○跪く心を忘れない ○武士道の精神の復興を ○古典を読め ○家族愛、郷土愛、 祖国愛、人類愛 ○国際貢献など不要 ○重要なのは「文学」と「芸術」と「数学」 ○真のエリートを求める
若者よ、スマホばかりしていると、愚民になりますよ。まだ読んでない方は「国家の品格」を読んでみてはどうでしょうか。先の見えない現代社会で、今後の私たちのあるべき姿が見えてきます。それでは、皆様のご健勝をお祈りしつつ 南~無 合掌 徳温禅月。
藤原正彦先生の講演を聴いて、再度「国家の品格」、「日本人の誇り」、「祖国とは国語」をはじめ、新渡戸稲造著の「武士道」を奈良本辰也訳や矢内原忠雄訳を読みかえしましたが、現代人が読むにはやはり「国家の品格」が理解できるし、私達に指針を与えてくれる良書だと思いました。
戦後いずれも作家となった新田次郎、藤原てい夫妻の次男として、満州国の首都新京に生まれる。ソ連軍の満州国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮半島北部で汽車が停車したため、日本への帰還の北朝鮮から福岡市までの残り区間は母と子3人(兄、本人、妹)による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。母・藤原ていのベストセラー『流れる星は生きている』の中でも活写されたこの経験は、本人のエッセイの中でも様々な形で繰り返し言及されており、老いた母を伴っての満州再訪記が『祖国とは国語』(2003年)に収録されている。
エッセイではしばしば「武士道」や「祖国愛(ナショナリズムではなくパトリオティズム)」、「情緒」の大切さを諧謔を交えて説いてきたが、口述を編集者がまとめた『国家の品格』(2005年11月、新潮新書)は200万部を超えるベストセラーとなり、翌2006年の新語・流行語大賞に「品格」が選ばれるなど大きな話題となった。同書では数学者の立場から、「論理より情緒」・「英語より国語」・「民主主義より武士道」と説いている。
「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下」であると述べ、国語教育の充実を推奨。「読書をもっと強制的にでもさせなければならない」「教育の目的は自ら本に手を伸ばす子を育てること」と主張している。
「国家の品格」
もともとは、藤原が講演で述べた内容を基礎にした本である。そのため、文体は口語調で、「妻を筆頭に殴りたい女性はたくさんいます」、「(什の掟は)最後の七つ目以外は納得できます」といったユーモアが効いたものになっている。西洋、特にアメリカの「論理万能主義」を批判し「だめなものはだめ」と主張。グローバリズムなどを真っ向から否定し、自国の伝統や美意識などを重んじることを説いた。
若者よ、スマホばかりしていると、愚民になりますよ。まだ読んでない方は「国家の品格」を読んでみてはどうでしょうか。先の見えない現代社会で、今後の私たちのあるべき姿が見えてきます。それでは、皆様のご健勝をお祈りしつつ 南~無 合掌 徳温禅月。
2014年11月4日火曜日
藤原正彦先生の講演を聴いて
おはようございます。
昨日のブログに書き足しておきたいことがありました。先生が講演のなかで、「卑怯」であってはならないと何度も言っておりました。日本人ほど卑怯なことを嫌う国民はいないのです。先生も父親から、下級生や弟や妹をいじめる事を厳格に戒めたそうです。
ちなみに藤原先生の父上は新田次郎さんで、母上は藤原ていさんですから、数学者でありながら文才があるのは、DNAかなと思うのですが、やはり幼少期から文学に親しんでいたし、すべての教科の基本は国語であると言っている通りです。
「祖国とは国語」の中で国語の重要性を書いています。「国語はすべての知的活動の基礎である、国語は論理的思考を育てる、国語は情緒を培う」~「祖国とは国語」(新潮文庫)~。国語が弱いと数学の文章問題は解けないし、英語だって、和訳できないのです。教育の根幹は国語なのです。
今、世の中に「卑怯」という行為がまかり通っていると思いませんか。政治も経済も社会も弱い者イジメ、金儲けが優先する時代になっているようですね。住居地区である私の裏にマンションの建設計画が出ていますが、近隣の住民は日照権が奪われて、陽のあたらない暗い生活を余儀なくされそうです。商業地区ならいざしらず、住居地区でこのようなことがまかり通るのは世も末かもしれませんね。このような行為を卑怯というのです。
弱肉強食ではなく、惻隠の情こそが社会を安定させるのです。欧米の思想では、いくつものアルカイダやイスラム国ができてくるでしょう。
私達日本人が育んできたものは「勇気、誠実、正義感、慈愛、忍耐、礼節、惻隠、名誉と恥、卑怯を憎む心」と藤原先生が言っているとおりです。そして情緒なのです。情緒は自然に触れ合うことがないと醸成されません。
日本の農業や里山を壊しては今後、ノーベル賞を受賞する人材も育たないのです。ちなみにノーベル賞受賞がもっとも多いのはユダヤ人ですが、まさに2千年余りも難民のごとく世界を漂流していてもヘブライ語を失いませんでした。ユダヤ人は10歳くらいまでに旧約聖書を覚えているそうです。
藤原先生の思想の根幹には武士道精神があるようですね。新渡戸稲造氏の「武士道」を再度読んでみたくなりました。藤原先生のご健勝と皆様のご活躍をお祈りしつつ 南~無 合掌 徳温禅月。
昨日のブログに書き足しておきたいことがありました。先生が講演のなかで、「卑怯」であってはならないと何度も言っておりました。日本人ほど卑怯なことを嫌う国民はいないのです。先生も父親から、下級生や弟や妹をいじめる事を厳格に戒めたそうです。
ちなみに藤原先生の父上は新田次郎さんで、母上は藤原ていさんですから、数学者でありながら文才があるのは、DNAかなと思うのですが、やはり幼少期から文学に親しんでいたし、すべての教科の基本は国語であると言っている通りです。
「祖国とは国語」の中で国語の重要性を書いています。「国語はすべての知的活動の基礎である、国語は論理的思考を育てる、国語は情緒を培う」~「祖国とは国語」(新潮文庫)~。国語が弱いと数学の文章問題は解けないし、英語だって、和訳できないのです。教育の根幹は国語なのです。
今、世の中に「卑怯」という行為がまかり通っていると思いませんか。政治も経済も社会も弱い者イジメ、金儲けが優先する時代になっているようですね。住居地区である私の裏にマンションの建設計画が出ていますが、近隣の住民は日照権が奪われて、陽のあたらない暗い生活を余儀なくされそうです。商業地区ならいざしらず、住居地区でこのようなことがまかり通るのは世も末かもしれませんね。このような行為を卑怯というのです。
弱肉強食ではなく、惻隠の情こそが社会を安定させるのです。欧米の思想では、いくつものアルカイダやイスラム国ができてくるでしょう。
私達日本人が育んできたものは「勇気、誠実、正義感、慈愛、忍耐、礼節、惻隠、名誉と恥、卑怯を憎む心」と藤原先生が言っているとおりです。そして情緒なのです。情緒は自然に触れ合うことがないと醸成されません。
日本の農業や里山を壊しては今後、ノーベル賞を受賞する人材も育たないのです。ちなみにノーベル賞受賞がもっとも多いのはユダヤ人ですが、まさに2千年余りも難民のごとく世界を漂流していてもヘブライ語を失いませんでした。ユダヤ人は10歳くらいまでに旧約聖書を覚えているそうです。
藤原先生の思想の根幹には武士道精神があるようですね。新渡戸稲造氏の「武士道」を再度読んでみたくなりました。藤原先生のご健勝と皆様のご活躍をお祈りしつつ 南~無 合掌 徳温禅月。
2014年11月3日月曜日
藤原正彦教授講演「日本の心~美しい情緒と国柄~」を聴いて
おはようございます。
11月1日に「おおいた教育の日」10周年記念推進大会が日田市で開催されました。その記念講演で「国家の品格」や「日本人の誇り」などの著者であるお茶の水女子大学名誉教授の藤原正彦先生の記念講演がありました。
御年71歳、お元気で口舌は絶好調でした。たぶんあと二十年はご健康でご活躍されると思い安心しました。「国家の品格」を読んでいない人にとっては、先生のお話に出てくる「惻隠」という漢字が浮かんで来ないかも知れないと思いながら聴いていました。
「我が国は古くから平等という言葉はありましたが、「平坦」という意味や仏の慈悲が衆生に一様に及ぶという意味、公平という意味などで、どれも闘争的な意味ではありませんでした。我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。」~「国家の品格」~
先生は、欧米の文明を批判しながら、日本の違いをお話していました。私もアメリカに三度ほど、行きました。ロサンゼルスオリンピックの時に西部へ、そしてケネディ大統領が暗殺されたダラスやジャズの町ニューオリンズなど南部を観光しました。
そして7年ほど前にニューヨークに行きましたが、そのときにアメリカは白人あるいはアングロサクソンやユダヤなどの一部の富裕層の国だなという印象を持ちました。先生の言う1人の勝者と99人の敗者の構図ですね。約5千万人の人が社会保険が受けられす、乳幼児死亡率が非常に高い国なのです。そして1人の勝者は、金融取引(不労所得)でお金がお金を生みだして儲けているのです。
世界史を見れば、欧米は戦争と征服の歴史であり、欧米の自由の概念は、アダムとエバと同様、神をも恐れない行為であり、自国の国益のために殺戮を繰り返してきたのです。しかもそれはわずか1%の人々の国益ではないでしょうか。自分の自由のために他人を犠牲にする自由ですね。
先生の言う「惻隠」を持った民族は、日本やブータン、ミャンマーなどの仏教を宗教にしている国に見受けられます。では中国や朝鮮半島で見受けれるかというと、ここでは一部の特権階級が国と冨を支配していて、見受けられないですね。
「惻隠」は武士道精神からの言葉だと思いますが、武士道精神はどうしてできたかと言うと、聖徳太子が神道と仏教の融合をはかり、神仏混淆のなかで醸成され、臨済宗や曹洞宗などの禅宗に基軸にしながら武士道が大成されるのです。茶道も華道もしかりですね。
日本の四季、自然、風土、民族性が、ノーベル賞受賞者を輩出しているとお話していました。1990年以降では今年で14名で、アメリカ、イギリスにつぎ3位です。そして日本のノーベル賞受賞者のほとんどが地方の出身者です。
自然のなかで、のびのびと育ち、友達を大事にし、家族が支えあって生活してきた人たちですよね。翌日、「進撃を巨人」を書いている日田市大山町漫画家諌山創君(28歳)の講演会がありましたが、この青年は天才だなと思いました。なぜなら従来の漫画の概念を超えているからです。
それはともかくとして、この大山町も地方の田舎ですよね。日本のどこでもある山や川、海などの自然で育ったのです。日本の自然や風土が育んでくれるものが情緒なのです。
「日本が生み出した普遍的価値のうち、最大のものは、第四章で述べた「もののあわれ」とか、自然への畏怖心、跪く心、懐かしさ、自然への繊細で審美的な感受性といった情緒です。」~「国家の品格」~
藤原先生が口を酸っぱくして言っていただいた日本人の情緒と国柄を失ってはなりません。アメリカの言うグローバリゼーションに踊らされ、金銭主義や拝金主義でお金儲けに狂奔していることが国力ではなく、真の国力とは自然であり、国民の教育であり、文化なのです。
先生の講演内容を十分にお伝えできなかったと思いますがぜひとも「国家の品格」(新潮新書)をお読みになってください。中野孝次先生の「清貧の思想」も併読するとよいと思います。それでは皆様の品格とお人柄が向上しますようにお祈りします。南無 合掌 徳温禅月。
11月1日に「おおいた教育の日」10周年記念推進大会が日田市で開催されました。その記念講演で「国家の品格」や「日本人の誇り」などの著者であるお茶の水女子大学名誉教授の藤原正彦先生の記念講演がありました。
御年71歳、お元気で口舌は絶好調でした。たぶんあと二十年はご健康でご活躍されると思い安心しました。「国家の品格」を読んでいない人にとっては、先生のお話に出てくる「惻隠」という漢字が浮かんで来ないかも知れないと思いながら聴いていました。
「我が国は古くから平等という言葉はありましたが、「平坦」という意味や仏の慈悲が衆生に一様に及ぶという意味、公平という意味などで、どれも闘争的な意味ではありませんでした。我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。」~「国家の品格」~
先生は、欧米の文明を批判しながら、日本の違いをお話していました。私もアメリカに三度ほど、行きました。ロサンゼルスオリンピックの時に西部へ、そしてケネディ大統領が暗殺されたダラスやジャズの町ニューオリンズなど南部を観光しました。
そして7年ほど前にニューヨークに行きましたが、そのときにアメリカは白人あるいはアングロサクソンやユダヤなどの一部の富裕層の国だなという印象を持ちました。先生の言う1人の勝者と99人の敗者の構図ですね。約5千万人の人が社会保険が受けられす、乳幼児死亡率が非常に高い国なのです。そして1人の勝者は、金融取引(不労所得)でお金がお金を生みだして儲けているのです。
世界史を見れば、欧米は戦争と征服の歴史であり、欧米の自由の概念は、アダムとエバと同様、神をも恐れない行為であり、自国の国益のために殺戮を繰り返してきたのです。しかもそれはわずか1%の人々の国益ではないでしょうか。自分の自由のために他人を犠牲にする自由ですね。
先生の言う「惻隠」を持った民族は、日本やブータン、ミャンマーなどの仏教を宗教にしている国に見受けられます。では中国や朝鮮半島で見受けれるかというと、ここでは一部の特権階級が国と冨を支配していて、見受けられないですね。
「惻隠」は武士道精神からの言葉だと思いますが、武士道精神はどうしてできたかと言うと、聖徳太子が神道と仏教の融合をはかり、神仏混淆のなかで醸成され、臨済宗や曹洞宗などの禅宗に基軸にしながら武士道が大成されるのです。茶道も華道もしかりですね。
日本の四季、自然、風土、民族性が、ノーベル賞受賞者を輩出しているとお話していました。1990年以降では今年で14名で、アメリカ、イギリスにつぎ3位です。そして日本のノーベル賞受賞者のほとんどが地方の出身者です。
自然のなかで、のびのびと育ち、友達を大事にし、家族が支えあって生活してきた人たちですよね。翌日、「進撃を巨人」を書いている日田市大山町漫画家諌山創君(28歳)の講演会がありましたが、この青年は天才だなと思いました。なぜなら従来の漫画の概念を超えているからです。
それはともかくとして、この大山町も地方の田舎ですよね。日本のどこでもある山や川、海などの自然で育ったのです。日本の自然や風土が育んでくれるものが情緒なのです。
「日本が生み出した普遍的価値のうち、最大のものは、第四章で述べた「もののあわれ」とか、自然への畏怖心、跪く心、懐かしさ、自然への繊細で審美的な感受性といった情緒です。」~「国家の品格」~
藤原先生が口を酸っぱくして言っていただいた日本人の情緒と国柄を失ってはなりません。アメリカの言うグローバリゼーションに踊らされ、金銭主義や拝金主義でお金儲けに狂奔していることが国力ではなく、真の国力とは自然であり、国民の教育であり、文化なのです。
先生の講演内容を十分にお伝えできなかったと思いますがぜひとも「国家の品格」(新潮新書)をお読みになってください。中野孝次先生の「清貧の思想」も併読するとよいと思います。それでは皆様の品格とお人柄が向上しますようにお祈りします。南無 合掌 徳温禅月。
2014年10月30日木曜日
「原尻の滝」を歩く
おはようございます。
以前、71歳で逝かれた名優緒形拳さんが大分県の豊後大野市緒方町がご自分の姓と、同じ呼びかたであると聞いて、亡くなられる前に緒方町に訪れたことが、TVで放映されました。緒方町の原尻の滝は絶対行っておきたいところだったので、昨日訪れました。
おんせん県おおいたの観光情報によりますと、
「日本の滝100選」「大分県百景」のひとつにあげられている名瀑です。
幅120m、高さ20mを誇り、今から9万年前に阿蘇山大爆発で流れた溶岩が滝周辺で堆積したものと云われています。その雄大な姿から「大分のナイアガラ」と呼ばれています。
滝の前には吊橋がかかっており、その吊橋からは滝を正面から見ることができます。下に降りて滝の近くまで行くこともできます。」
原尻の滝は、人を魅了し、虜にする魔力を持っているのか、不動明王様が滝の上方に鎮座していました。合掌すると、「ノウマクサンマンダバサランセンダンマカロシャダソワタラウンタカンマン」と真言が口から思わず出てきました。合掌礼拝。
川の中に鳥居が立ち、その奥に緒方三社があります。平安時代に建立されたそうです。
ここは、まさにパワースポットですね。原尻の滝そばに茶屋があり風情があります。
緒方三社から見た原尻の滝です。縁起が良く、虹がかかっています。
ぜひ、一度おんせん県おおいた豊後大野市緒方の原尻の滝を見に来てください。
以前、71歳で逝かれた名優緒形拳さんが大分県の豊後大野市緒方町がご自分の姓と、同じ呼びかたであると聞いて、亡くなられる前に緒方町に訪れたことが、TVで放映されました。緒方町の原尻の滝は絶対行っておきたいところだったので、昨日訪れました。
おんせん県おおいたの観光情報によりますと、
「日本の滝100選」「大分県百景」のひとつにあげられている名瀑です。
幅120m、高さ20mを誇り、今から9万年前に阿蘇山大爆発で流れた溶岩が滝周辺で堆積したものと云われています。その雄大な姿から「大分のナイアガラ」と呼ばれています。
滝の前には吊橋がかかっており、その吊橋からは滝を正面から見ることができます。下に降りて滝の近くまで行くこともできます。」
原尻の滝は、人を魅了し、虜にする魔力を持っているのか、不動明王様が滝の上方に鎮座していました。合掌すると、「ノウマクサンマンダバサランセンダンマカロシャダソワタラウンタカンマン」と真言が口から思わず出てきました。合掌礼拝。
川の中に鳥居が立ち、その奥に緒方三社があります。平安時代に建立されたそうです。
ここは、まさにパワースポットですね。原尻の滝そばに茶屋があり風情があります。
緒方三社から見た原尻の滝です。縁起が良く、虹がかかっています。
ぜひ、一度おんせん県おおいた豊後大野市緒方の原尻の滝を見に来てください。
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