2013年1月25日金曜日

アルジェリアからの帰国ー「修証義」を学びつつー

 おはようございます。
羽田空港に無事であった7人の方と亡くなられた9人の方を乗せた政府専用機が6時48分に、あさもやのなか、暁(あかつき)の太陽を背に到着しました。「おかえりなさい」とテレビを見ながら思わず合掌しました。

亡くなられた方のお母さんのお話のなかで、アルジェリアに行くことが決まった息子に「そんな遠くの国に行って大丈夫」と言ったら、息子さんが「親より先に逝くようなことはせんから心配せんでええ」と言っていたが、こんなことになって、家に帰ってきたら「私の子供に生まれてきてありがとう」と言いたいとお話していました。思わず涙が出てきました。心よりご冥福をお祈りします。

青松寺の境内にある生まれたばかりの釈迦像です。

生まれて、「天上天下唯我独尊」と言われたとのことですが、「天にも地にもかけがえないただ一つのいのちである」という意味です

道元禅師の「修証義」の最後の章は、「行持報恩」です。行持とは、仏の心を持つ修行の持続と言う意味です。中野東禅先生は、「あなただけの修証義」(小学館)で、次のように書いています。

「さとりを求める心(発菩提心)は
この人間の世界でこそ起こすべきものだといいます。
仏や教えに出会うことは難値難遇であるから、
この仏縁を喜ぼう、法を説く真実の人は外見で
選んではいけないといいます。
そして、その仏縁を感謝する方法は、毎日の生活で
仏の心を実現していくことだと言います。
そして、無益に百年生きたとしても、一日真実に
生きたら、その百年も真実になるといいます。
そして、現実の日常で自我を差し挟まない仏心(即心)
の時、そこで仏は確かめられているというのです。」

「病雀なお恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀なお恩を忘れず、余不の印能く報謝あり。畜類なお恩を報ず、人類意いかでか知らざらん」の文は、すずめもかめも恩をかえした。ましてや人間というものがどうして恩をしらないということがあっていいのでしょうかと問いかけているのです。

道元禅師は、道理とは自分の欲望のために使わないで、無心無我で働くことから仏心を行い保つことだと言っているのです。「光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露より脆し」だから「諸仏の行持なり。」

「釈迦牟尼仏これ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは、誰というぞと審細に参究すべし。正に仏恩を報ずるにてあらん。」

あなたのあるがままのこころが仏であり、注意深くきめ細やかに学び工夫することが仏恩に報いることだと言っています。感謝なことです。

一度、この「修証義」を声をだして読んでみませんか。「初めての修証義」(四季社)、「あなただけの修証義」(小学館)、「曹洞宗のお経」(学研)、「修証義に聞く」(潮文社)などをご紹介します。

























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