2012年12月12日水曜日

修証義について

 おはようございます。
東京国際仏教塾での学びは、曹洞宗コースが9日と10日にありましたので、その一端をお話して、入塾して学びをされる方を増やしたいと思っています。今までに約1500名の卒業生が出ていますが、残念ながら大分県は私が最初なのです。交通費がかかることはゆがめませんが、沖縄県から36歳の青年が、働きながらきていますので、決意の問題かもしれません。

講義に入る前に、中野東禅先生より「プチ出家入門」「仏さま白書」の書籍の紹介がありました。在家であろうと、出家であろうと、仏道に入ることの決意は大事なことです。あえて仏道と言ったのは、まさに人生は修行であり、仏の道を歩んでいると思うからです。そう思って人生を全うする人を仏道に入ると解釈しています。

「仏さま白書」はお釈迦様から七福神までわかりやすく書いています。よくキリスト教は、一神教で仏教は、多神教と言われるのをきたことがあると思いますが、一神教はユダヤ教とイスラム教だけです。その図式は下記のとおりです。

      体・悟りの本体     相・姿の仏     用(はたらき)・出会いの働きの仏  衆生

仏教     毘盧遮那仏     お釈迦様      観音様など          人間

キリスト教  ゴット(神)     イエスキリスト    聖霊・天使          人間

このように見ると、仏教とキリスト教は類似しています。私はイエスは、仏教を学んだと思っています。ですから明らかに、旧約聖書と新約聖書の神の異質性を感じるわけです。

いよいよ「修証義」の講義が始まりましたが、これは道元さんの「正法眼蔵」のエキスをまとめたものです。まず第一章の総序で、仏教の基本的立場を書いているのです。第一節に、仏教のねらいを書いています。この文章が最高ですね。


「生を明らめ 死を明らめるは 仏家一大事の因縁なり、 生死の中に仏あれば生死なし、

 
但生死即ち 涅槃と心得て 生死として厭うべきもなく、 涅槃として ねごうべきもなし、

是時  初めて生死を離るる分あり、 唯一大事因縁と究尽すべし。」


私訳すると、「なぜ生きているのか、いのちや死とは何かを学び悟ることに、縁を持ったのはもっとも大事なことである、生き死になかに真理があり、その生き死にをえり好みすることはできない。生き死のなかに、静寂な悟りの場があり、生き死にから逃げ出していけない。かといって人生そのものが悟りではない。生き死にへのこだわりを離れると、善き人生となる。かけがえのないご縁こそもっとも大事ことであり、腹を据えていきたいものである。」ということだと思います。

金儲けの人生、快楽を求める人生、ただただあくせく働く人生、いつも人と比較する人生、妬み羨む人生などなど、さまざまだが、人生も「無常」であることを知らねばならない。人生そのもののなかに真理があるのではなく、真理が先にあって人生を歩むと、自ずとその人生は豊かでいきがいのあるものと変わるのです。だから真理を知って歩む人生が最上の人生であり、人生は悟りへの修行の場であると思うのです。仏道を歩むとはそのようなことではないでしょうか。島倉千代子さんの「人生いろいろ 男もいろいろ」という歌がありましたが、人生は人さまざまです。しかし死は平等にやってきます。死ぬときに自分なりによい生き方をしたと思って静かに死にたいと思ませんか。





















  

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