2012年12月13日木曜日

修証義についてⅡ

 おはようございます。
先日、上野公園に行ったお話をしましたが、昨日のBS日テレで、「日本100巡礼」という番組があっていますが、不忍池や寛永寺、そして上野の山にある清水観音堂が紹介されていました。この清水観音堂でお祈りしたことを申し上げるのを忘れていました。また不忍池の蓮の花は、まさに泥中に咲く花で、私たちも汚れきった俗世で、清らかな花を咲かせたいものです。

東京国際仏教塾の曹洞宗コースでは、中野東禅先生の修証義講義が、8日に引き続きありましたが、朝一で、わざわざ、「禅者山頭火」(四季社)という本を持ってきてくださり、感謝なことでした。以前より種田山頭火の本を読んでみたいとは思っていました。山頭火は放浪の自由詩人で、日田市にも訪れ、豆田町の旅館に泊まったことを書いていますが、彼の心の葛藤を理解するには、私の人生観を合わないし、難しいなと感じていましたので、実はさけていました。

山頭火の詩句の中の、

「分け入っても分け入っても青い山」

を読むと、人生の機微、自己修行は、終わりがないとも読み取れます。

さて修証の意味を、先生は「あなたの仏心が証明されている。日常の行動に本心が証明されている。」と説明してくれました。つまりお釈迦様の八正道の日々の実践(正しく思い、正しく行動する)であると感じた次第です。

また一休さんが骸骨を見て、骸骨は必ず二人でいるそうで、読んだ句が

「けんかしないで くらそうじゃないか 末は互いにこの姿」

で、ご紹介してくれました。修証義の第二節ではかけがえのないいのちとご縁について述べているのです。

「人身得ること難し、仏法値うこと希れなり、今我等宿善を助くるに依りて、己に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遭い難き仏法に値い奉れり、生死の中に善生、最勝の生なるべし、勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。」

ほとけの教えの会うことは、不思議であり、またこの世にいのちをいただいているのもまれなことであり、ましてやよき伴侶に恵まれるご縁もなかなかないものであるといえます。一休さんの骸骨の句の意味がわかりますね。結婚しても、相性が合わないの、夫が妻のせいにし、妻が夫のせいにして、辛抱がなくすぐ別れるのは、畜生より劣ることかもしれませんね。人生を無常の風にゆだねて生きてはいけませんと言っているわけです。

そして第三節で、いのちのはかなさを伝えています。私たちのいのちは露のごときもの、いつ道草におちるかもしれず、自分の思い通りにはなりません。過ぎ去った時間は戻らないし、若き日のみずみずしい肌も戻らないのです。はかなさはあっという間にやってきて、政治家も、上司も部下も、妻子も、蓄えた財産もだれも何も助けてくれないのです。そしてあの世についていくのは、心でなした善と悪の行為と習慣だけであると道元さんは言っているのです。いつ死が訪れても、善きことをしたと思って死ねばその人は必ず天国に行くと思うし、こころにわだかまりを持って死ねば地獄に行くのです。そうおもいませんか。



















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