2012年12月18日火曜日

危機突破内閣ー修証義についてⅤ-

 おはようございます。
自民党の安倍総理は、危機突破内閣と名づけました。しかし、投票率を見ると国民の何割かの人たちは、危機感を持っているのだろうかと疑わしくなります。なぜなら、投票する権利と義務をおこなわないことは、政治の不毛だとか、政治への失望感とか、メディアで評論家諸氏が言いますが、果たしてそうでしょうか。

私達の国の行く末、あるいは具体的な政策(景気回復、東日本の復興、エネルギー政策、福祉など)を決めるのは、国民であることを自覚すべきだと思います。投票率を見ていると、国民は危機感を持っているのだろうかと疑問に思います。今日的病状は、政治への失望ではなく、危機感の喪失ではないでしょうか。

当然、投票率を上げる施策として、インターネットを活用できないかとか、税負担と一緒で、義務の遂行がなければ、罰則を設けるとか、意見を出して改善していかなければなりません。民主主義は、間接民主主義から、直接民主主義的手法である国民投票などの必要性が問われている今日のです。

この危機感の無い、あるいは投げやりな行為をする人達を衆愚と言います。選挙管理委員会は、行かなかった人の理由を調査してはどうでしょうか。たとえば、生活保護手当を受けてる人や、子供手当をもらっている家庭のご夫婦などが、もし投票に行ってないとしたら、由々しき問題ではないでしょうか。

日本の歴史をみると危機的状況は、平安時代から鎌倉時代ではないでしょうか。平清盛から源頼朝の時代、武士の台頭と同時に、いくさや天変地異(地震や津波)そして不作による飢餓で多くの民が死に、今の京都市の河原町あたりには、腐乱した死体が山積みされていたそうです。芥川龍之介の「羅生門」など読むと光景が浮かぶかと思います。元寇が押し寄せて来るのもこの時代です。現代とよく似ていると思いませんか。

似ていないのは、日本は豊かになりすぎて、食べるものはあるし、原子力発電は止めても、電力の供給は行われていますので、何の困っていないのです。危機感とは、あたりまえに給料やボーナスをもらい、遊び呆けている国民には出てこないのです。しかし日本は危機的状況にあるのです。

末法と言われた鎌倉時代、仏教は本当に民を救えるのかと苦しみながらも、その答えをだした人たちが多数出てきます。法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮などです。日本仏教の基礎は、危機的状況の中から生まれてきたのです。

今の寺院の僧侶に、10年以上も自殺者が3万人以上を超える日本の民衆を救うことができるのでしょうか。葬式仏教と揶揄され、戒名料などに寺の経済的基盤を依存して、なにも改革をしない僧侶に民衆を救うことはできません。金儲けにうつつを抜かしている宗教家諸氏も危機感が欠如していませんか。

危機感の欠如は、直観力の鈍化なのです。WWFという地球上の動物たちの保護活動の支援をしていますが、動物は本能的に常に、危機感を持ち、それを察知する能力は、人間の何倍も優れています。自然界では、もともと人間にもあったものです。

10年ほど前でしたか、韓国が通貨危機になり、国そのものが立ち行かなくなり、IMFの支援を受けるとともに、国民が一斉にキリスト教徒も仏教とも祈りを捧げ、すべての国民が尽力をつくし、国難を乗り越えたのです。その結果が、サムソンやヒュンダイに代表されるような世界的企業の成長や経済成長にあるし、世界に輸出できるKポップなどの文化も登場してきたのです。

韓国の人たちの祈り方は、今の日本人が見習わなければならないほど、真剣に祈ります。3日や1週間以上の断食祈祷をするのです。道元さんの修証義に、悔い改めて祈るなら仏が現成し、その功徳があり、慈悲に包まれると言っているのです。

NHK大河ドラマ「平清盛」に出ています後白河法皇が、民衆の歌を編纂したのが「梁塵秘抄」ですが、あのドラマの冒頭の

「遊びをせんとや生まれけむ   戯れせんとや生まれけん 
  遊ぶ子供の声聞けば   我が身さえこそゆるがるれ」

も「梁塵秘抄」からです。純真になりますよね。子供を虐待したり、殺したりする時代は、まさに危機なのです。

中野東禅先生が修証義講義の中で教えてくれた歌をご紹介しましょう。

「仏は常にいませども   うつつならぬぞあわれなる
 人の音せぬあかつきに   ほのかに夢に見えたもう」

神仏は、危機感を持ち、真剣に祈り、仕事に生活に頑張っている人々を見捨てることはありません。経営者も従業員もかくあるべきですし、そのような会社は世のため、人のためになるから伸びるのです。我が国の政治家諸氏も愚にもつかない他党批判をやめて、国民とともに一致協力して、この国難を乗り切らなければなりません。国民は見ていますよ。












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