2013年12月3日火曜日

「清貧の思想」を読むⅡ~良寛と長明~

 おはようございます。
「清貧の思想」の第4節から第7節までは、鴨長明と良寛とを対比しながら、彼等の暮らしぶりを書いています。ウィペディアで紹介すると、当然時代は違うのですが、この二人の出家のありかたに差異があるのです。

「鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人随筆家である。俗名はかものながあきら禰宜・鴨長継の次男。位階従五位下
鴨長明 (菊池容斎画、明治時代


良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗僧侶歌人漢詩人書家。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚
長岡市隆泉寺の良寛像


鴨長明はあの有名な方丈記の作者ですが、
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」と高校時代に暗記している人が多いと思いますが、この出だしの文章こそ、仏教の無常観を表しているのです。

中野孝次先生によりますと、年齢がきたので、長明は仕方なく出家したが、良寛は、自らの意思で乞食生活を選んだと書いてありますが、現代人には良寛的な生き方をできる人はほとんどいない。近年では俳人で、曹洞宗の僧侶でもあった種田山頭火だけではないでしょうか。

「とにかく鴨長明は、方丈という最小限の空間に住みながら、そこで音楽をたのしみ、利得にあくせく奔走しないでいられる生活を誇りとしたのだった、またその心境をよしとする人がいたからこそ、彼の『方丈記』は今日まで読みつがれてきたのであろう。こういうふうにしてから人から人へと目に見えない糸で伝えられて来たもの、それをもし文化の伝統というなら、その伝統をわたしは尊いものに思うのだ。」(「清貧の思想」より)

日田市の天領まつりのおり、乞食行をしている若者をみましたが、ほんものかどうかは別にして一日中立っているところをみるとほんものかもしれませんね。わたしは若いときは俗世に身においたほうが、そのほうが僧侶人生のなかで、民衆の声が聴ける人になると思います。

良寛の生活は、昼は托鉢行をしてまわり、草庵(越後五合庵)に住んで、「嚢中三升の米と炉辺一束の薪」だけである。エアコンがついた部屋で何不自由なく生活している現代人には、豪雪地帯の新潟で、このような生活など到底できるはずがないのです。

「わたしはいつか冬は、越後の国上山の五合庵跡をたずね、そこに再建されている庵を見て、老杉の下に一間きりの寒々とした粗末な住居に自分ならとうてい耐えられまいと思った。あまりにも簡素で、あまりにも貧しすぎるのである。そしてこういうところに粗衣粗食で暮らした人はよほど精神の強靭な人だったのだろうと想像するとともに、現代文明に甘やかされたわれわれの脆弱さを省みずにいられなかった。」(「清貧の思想」より)

「師、常に手まりをもて遊び給ふとききて奉るとて、『これぞこの仏の道に遊びつつつくやゆきせぬみ法なるらむ』貞心尼 それに対する良寛をの返しが、
「つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまたはじまるを」 なのである。

理屈を言わずにともかくあなたも毬をついてみなさるがいい、ひふみよいむなやここのとを十、とついて収め、また新たにひふみよと始める、その無限の繰返しこそ人生そのものであり、仏の道というものがあるならその中にしかにことがわかるでありましょう、という。」(「清貧の思想」より)

現代人が良寛を尊敬してやまないし、そうなりたいと思うのは、すべてのしがらみを捨てきっているからだと思います。今、終活という言葉が使われるようになりましたが、その時期が来たら、まさに隠居して静かに過ごしたいとほとんど人が思っていると思います。

こころ静かに生きるために、権力や富や煩悩をできるうる限り捨てきることだと思うのですが、なかなか捨てきられない煩悩と執着こそ、自らが越えなければならない峠かもしれませんね。とにかく中野孝次先生の「清貧の思想」(草思社)は読めば読むほど味がでてくる本です。

私が「清貧」から「清福」と言っているのは、現代人には、貧しさの度合いが違うのですから、せめて清々しく幸福な人生を歩んで欲しいと思うからです。皆様のご多幸をお祈りしつつ・・・合掌 徳温禅月。




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