2013年12月4日水曜日

仏道を歩くⅦ~僧侶(聖職者)の不祥事に思うこと~

 おはようございます。
 29日、広島で53歳の住職が、貿易会社の社長と偽り、不倫相手の女子大生に、暴行を繰り返し逮捕されたことが報道されました。僧侶や牧師の性的犯罪、不祥事があとを絶たず、多くの方が憂い、失望していることを鑑み、なぜこのようなことが起きるのか皆さんと考えてみたいと思います。

現代のお寺や教会などは、世襲が多く、親が住職だったので仕方なく?後を継いだケースがほとんどではないでしょうか。仏教では、出家と在家という言い方をしますが、ほんとうに出家した僧侶は少なく、形式的に出家と言っているだけで、むしろ在家のなかに、出家に等しい人が多くおられます。

世襲制のため、人生と何か、宗教とは何か、仏教とは何か、キリスト教とは何かを考えたり、悩んだり、苦しんだりすることなく、僧侶や牧師が多いためこのような事件が後を絶たないのかもしれません。つまりなんら宗教性も信仰もない僧侶が多いと言ったら語弊があるでしょうか。

しかし私は、素晴らしい僧侶や牧師さんにもお会いし、親しく接し、ご教授いただいております。そういう方もたくさんおられるのに、一部の聖職者の不祥事によって、宗教界とりわけ仏教界が批判の矢面に立たされることは残念なことです。

ブッダもキリストも、悪魔から同様の誘惑(攻撃)を受けました。このことは仏典にも聖書にも書いています。今の僧侶や牧師にも、悪魔の誘惑があるのです。悪魔とは言わなくても、人間の根源にある欲望(煩悩)とりわけ性的な欲望に負ける人が多いのです。

現代の僧侶はほとんどが妻帯してるのですから、健全な夫婦生活をおくればこのような破廉恥な不祥事はおきないのです。つまり不健全な心構えを持っているし、不信仰なのです。一般の方は僧侶が不信仰ですかと驚く方もおられると思います。

つまり僧侶とは職業ではなく、悟った人である自覚が欠如しているし、悟っていないわけです。キリスト教では明確に聖霊や悪霊の存在を語っていますが、仏教では、仏陀が霊魂について語らなかったから、霊魂は存在しないなどという仏教学者がいますが、それならなぜ阿弥陀信仰や真言や陀羅尼などのお経があり、亡き人を供養するのでしょうか。

あなたの目には見えないお方がおられ、いつもあなたを見ていて、あなたを導き、あなたを守ってくれているのです。つまりそれが菩薩であり、聖霊ではないですか。あなたのそばにいるのです。あなたが菩薩や聖霊を悲しませることをしてはいけません。

見られていると信じますか?信という字には、信頼する、信用する、信心するなど多くの言葉がありますが、もっとも大事な言葉は、信仰です。それは崇める方であり、敬うべき方であり、私たち凡俗な人間とはレベルの違う方を信じることです。あなたは信仰がありますか。

それでは、皆様のご健康とご健勝を祈りつつ・・・合掌 徳温禅月。



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