2014年6月27日金曜日

「男の厨房」そのいち

 おはようございます。
日田市光岡公民館からのご案内で、「男の厨房」があると書いていたので、これって終活の一環だと思い、応募し、早速昨日が第一回目でした。なぜ、終活の一環かというと、お料理は奥さんに任せている方がほとんどですが、もし、奥さんが病気になり入院したり、あるいは認知症になったら、料理もできないで、スーパーやコンビニの惣菜ではあまりにも虚しいとおもいませんか。ひょっとし熟年離婚もあるかも、どうする。だから終活の一環で料理ができるようになるために「男の厨房」に参加しました。

参加者への説明と自己紹介

今年の参加者は、12名ですが、新人は私だけで、2年目、3年目の方々がほとんどで、先輩に教わりながらの料理実習でした。昨日は、①シャキシャキレタスのシーザ―サラダ、②小松菜の中華炒め、③キャベツと卵のニース風サラダ、④のりの鶏肉はさみ焼き、⑤わかめ衣のから揚げを2名づつでつくりました。

料理風景


私は、「シャキシャキレタスのシーザ―サラダ」を先輩と作りましたので、作り方を書きます。まずはご夫婦お二人の場合で、1、レタス(二分の一)を手でちぎり、水洗いします。次にたまねぎ(四分の一)を薄切りにし、冷水にさらし、水けをきります。2、ベーコン(2枚)を焼き、1㎝幅に切ります。3、ミニトマトを半分に切ります。4、温泉卵(2個)を作ります。卵のおしりに針をさし、水が沸騰する寸前で止め、冷水に浸しておきます。殻をむきます。

次に器にレタスとたまねぎを盛ります。その上にベーコンをのせます。そして温泉卵をのせて、コーンフレーク(10g)をふりかけ、シーザードレッシングをかけて、出来上がりです。この日一番おいしかったのは、「シャキシャキレタスのシーザーサラダ」でした。

5品の出来上がり

公民館長さんと佐々木先生と、全員でおいしくいただいております。食べきれない分はタッパーに入れて奥さんにお土産です。

難しかったのは、たまねぎの薄切りですね。包丁さばきは年季がいりますね。次回が楽しみですね。皆さんも作って食べてみてください。それでは皆様のご健康をお祈りします。南無 徳温禅月。






2014年6月25日水曜日

死んだらどうなるの?

 おはようございます。
かねてより、死後の世界についての書物を読んできましたが、臨死体験はあまり信じられないですね。なぜなら、それは脳が働いている可能性が強いからです。仏典や聖書はどう書いているのかということですね。

まずは、人間も動物も死ねば、肉体は朽ちて行きます。これは歴然とした事実です。しかし、兄が亡くなる時、あきらかに何かが抜けて行ったと思いました。その後、心臓が止まったのです。核家族化の大きな弊害は、死と向き合う機会がないと言うことです。

少なくとも、三世帯くらいで住んでいれば、おじいちゃんやおばあちゃんの死を看取ることがありますが、現代社会は、肉親の死に接する機会が非常に少ないのです。ましては自宅ではなく病院で死を迎えますので、なおさら死に接する機会がないのです。

子どもの時にそのような経験がある人は、いのちの大切を肌身で感じることができますが、そのような機会がないと生と死が希薄になり、生と死を軽率に扱うようになります。それが都会における「直葬」などの葬儀形態にもあらわれています。


聖書は聖霊の書物と訳したほうがよいかもしれませんね。霊についてキリストが実によく述べています。仏典は人間が生きる知恵ですが、仏陀が霊について無記と表現さていますが、仏陀の神々や悪魔との対話を読んでいると明らかに霊的世界があることを示唆しています。

大事なことは、人間の生命を構成しているものは、肉体と精神(こころ)と魂(霊)であるという前提を理解しないと、死後、肉体も思考する精神も朽ち果てますが、兄の死の、あきらかに抜けて行ったものはこそ、魂(霊)だと思うのです。

当然は霊は、見えません。いわゆる気体ですね。ですから霊は思考したりしません。純粋無垢のものです。ただ神仏のみもとに向かうのです。輪廻もしません。なぜなら記憶もないからです。生前信仰のあつかった方々は、阿弥陀様やあるいはクリスチャンならキリストのみもとにいくのだとおもいます。

では信仰のないかたは、行き場がないのでさまよいます。悪霊化する可能性があると思うのです。聖書には、神の霊と、悪霊と、人間の霊を言っています。そして悪霊は人間のなかに入り込んでくるのです。

多重人格とは、悪霊が憑依したものであり、犯罪者もまた悪霊の虜になっていることが多々あるのです。自力では悪霊を追い出すことは不可能です。ここまで到達した人が、仏陀でありキリストです。ですからその御名が必要なのです。

今日はこれまでに体験したこと、読んだことなどから思いのままに書きましたが、唯物論とお金教に毒されていると、生と死を理解することはできません。この世の天国と地獄をあじあうのも、あの世の天国あるいは地獄にいくのもあなた次第だとおもいませんか。

それでは皆様が良き人生を送り、安らかな死を迎えることができますようにお祈りします。南無 合掌礼拝 徳温禅月。






2014年6月23日月曜日

釜ケ瀬せせらぎコンサートより

 おはようございます。
大分県日田市の北西部に小野があり、小鹿田焼の里へと向かう。その手前3キロあたりから右に入ると、殿町釜ヶ瀬という地区がありますが、一昨年の北部九州大豪雨で、川が氾濫し、田畑が浸かり孤立しました。2年が経ち、やっと復旧し、美しい釜ヶ瀬渓谷の景観が戻ってきました。


釜ヶ瀬の古民家にアトリエ美・百代相をおく藤井美相さんと仲間たちそして地区の皆さんが、復旧を祝っての「釜ヶ瀬せせらぎコンサート」を開いてくれました。藤井先生の作品もたくさん展示されていました。





コンサートに前座は、天ケ瀬町地域おこしの「輝(キラキラ)ほいサーズ」の皆さんのスコップ三味線で、なかなか本格的でした。一流の先生に指導を受けています。


先生で~す。

そして、博多を本拠地にしているNabeさんの語りと歌に酔いしれました。(酒は飲んでいませんよ。)人を楽しくさせたり、愉快にさせてくれる、気持ちよくさせてくれる人が世の中にいるんだなと感心しました。


1958年頃の曲から70年代、80年代の歌を歌ってくださり、青春の思い出が甦ってきました。感謝で~す。


Nabeさんは、8月の津江フェスティバルにも来てくださるそうで、絶対に行く行く。


ついに踊りだした財津先生、見る井上先生、笑っている美相先生で~す。とにかく楽しいコンサートでした。合間にせせらぎが聞こえ、すばらしいところです。企画していただいた藤井先生をはじめ皆様に感謝を申しあげます。おんせん県おおいた日田市殿町窯ヶ瀬より。







2014年6月18日水曜日

「仏教聖典」を読む~かたよった生活~

 おはようございます。
生活索引では、「かたよった生活」となっていますが、本文は第4節「かたよらない道」の前文に書いていることです。

「道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。」~「仏教聖典」(仏教伝道協会)P60-6行~

30年ほど前、尊敬する先輩が、しみじみとこういった言葉を思い出しました。「人間は好きで亡びるんだよ。酒好き酒で亡び、女好きは女で亡び、仕事好きは仕事で亡びる。火の車、おのがつくりておのが乗りゆく。」

好きと言うよりは「欲」で亡びるんですよね。ASKAが覚醒剤に手をだしたのも、所詮、快楽と言う欲望、言い訳として創作活動に集中できるからなどと言っていますが、そんなものに手を出さなくても素晴らしい活動をされているアーチストが圧倒的に多いのです。ましてや女が絡むと事態はもっと深刻になります。


現代社会は、拝金教もしくはお金教に洗脳され、マインドコントロールされてるのです。これについては、苫米地英人さんが「宗教の秘密」で詳しく書いていますのでご一読してください。この本は、世界の宗教をよく言い当てています。

たとえば、株価があがると株を買ってない人でも口にする、それもエコノミストやアナリストという人の発言をそのまま、うのみにして人に言う、実はメディアからのコントロールされているんです。そして民衆は耳をそばだてる。儲かるという欲望が動くわけです。そしてほとんどの人が損をし、一握りの人達が、儲かる。

欲望を仏教では煩悩とも言いますが、食欲、性欲、所有欲、名誉欲など際限なく欲望に翻弄されているんではないでしょうか。美食と言って、どこまでもおいしいものを求めて食べにいく、いい女、いい男がいると、既婚者であることも忘れて誘惑する。あぁ果しない欲望の虜たちよ。

二つめに書いている「自分の心身を責めさいなむ苦行の生活」と書いていますが、現代の日本人あるいは宗教人でこのような人は少数ですよね。「易行」とことばに毒されて何の修行もしない僧侶が多々いることは現実で、東南アジアでは日本人の僧侶は僧侶として認めていないのです。

自分の心身を責めさいなむという行為によって鬱病になるかたが多いのも事実です。しかし釈尊は答えを述べています。

「この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。」

まずは、仏教聖典を読むことだと思います。そしてこの国際社会のなかで偏らない思考をもつために「聖書」も読んでください。また浄土真宗の人も、座禅をしてください。禅宗の人は、念仏もあげてください。また、ひとりのベストセラー作家にのぼせるのではく、井沢元彦さんや苫米地英人さんなどの本も幅広く読んで見てはどうでしょうか。中道とは、そのような行為から始まるのではないでしょうか。

それでは皆様が偏った生活をしないようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌礼拝 徳温禅月。






2014年6月17日火曜日

「仏教聖典」を読む~正しい人生観~

 おはようございます。
先日、FBに投稿された動画をみていましたら、「胎内記憶」についてのものでした。ただ後半、天から舞い降りてお母さんのお腹のなかに入ったという再現描写は、あたかも既に子供の姿であるように描いていますが、それは「魂」が胎児の中に入ってから脳が働き、イメージされたものと思います。

臨死体験のほとんどはそのようなことだといえるのですが、かといって、霊あるいは魂があるのかないのかはお釈迦様が言わなかったのは、当時の事情と目に見えないものについてあまり発言しなかったのですが、「神々との対話」「悪魔との対話」という原始仏教の経典「サンユッタ・ニカーヤ」中村 元先生によって訳されてことによって、眼に見えない世界が明らかになったと私は思っています。

お釈迦様が話された神や悪魔は肉体を持ったものではないことは誰も推察できます。つまり神や悪魔は、霊だということです。つまり霊は眼には見ませんが存在しているのです。イエス・キリストは、これを聖霊と悪霊と表したのです。ですから人間の生命は、肉体と精神(こころ)と魂(霊)によって成り立っていると思うわけです。



仏教聖典のなかの、今日の生活索引は「正しい人生観」です。人生観とはこの現実です。この現実には、生老病死があり、縁起と言う原因と結果があり、世の中は常に変化するという無常があるのです。

「人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
・・・・
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、またこの心も経験と知識とによって育ったものである。だから、この身の、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
・・・・
すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。だから、うつり変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまとことの道理であり、これだけは永久に変わらない。」~「仏教聖典」(仏教伝道協会)P43・5行~

現実を直視し、これを解明した(悟った)方がお釈迦様なのです。霊とは変わらないもの、変えられないものですが、変えることのできる現実(原因)は、変えることによって、より豊かに、幸せな、正しい人生を送ることができるのです。その努力をするのはあなたです。

それにもまして、永遠に変わらぬ神仏(法)への信仰があれば、神は自ら助くる者を助くるのです。人間的努力をしない者に、神仏が手を差し伸べることがありましょうか。また逆に不信者に神仏が働くことは絶対にないと思いますし、目に見えない世界(4次元)には、悪魔・悪霊の働きもあり、その虜になるのです。宗教と言う仮面をかぶった悪魔も登場してくるのです。(オーム真理教など)

「仏教聖典」を毎日読む人は、正しい人生観が醸成されていくのです。ぜひこの本を手に取って、朝に夕に読んでください。そうすればあなたの人生は輝き始めます。くだらぬ本や情報、新興宗教に翻弄されるのは、あなたのレベルがその縁をつないでいるのです。

それでは皆様の人生が豊かなものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌礼拝 徳温禅月。





2014年6月16日月曜日

井沢元彦さんの講演の聴いて

 おはようございます。
14日に大分県日田市の日田ロータリークラブの50周年記念式典があり、記念講演で作家の井沢元彦さんが「歴史から見た日本人の危機意識」と題してお話をされました。私は、この講演のタイトルを「『言霊』~歴史から見た日本人の危機意識~」にした方が良かったのではないかと思いました。


井沢さんの20数年前から、持論である日本人の言霊思想が、危機意識を阻害しているということを書いていますが、何より、井沢さんが世界の宗教を勉強してきていることは敬服すべきだとかねてよりおもっていて、井沢さんのお話が聴けるのは幸いなことでした。

井沢さんの著書である「言霊」、「逆説の日本史」そして「井沢元彦の世界宗教講座」などを読んだ方は、講演を聴いていてすらすらと頭の中に入っていったと思います。まあ、初心者の方も楽しく、聞けて良かったと思う次第です。

井沢さんは、日本古来から続く言霊思想が、日本人の意識や言動を縛っていると言っているのですが、「言霊」とは一体何でしょうか。

ウキペディアには次のように書いています。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。
これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。

井沢さんは上記の概念をよく理解されたうえに、現実の日本の歴史が言霊思想に影響されていたことをお話したのですが、言葉というのは非常に重要で、前向き、積極的なことを言っていると良い結果が、後ろ向き、消極的なことを口にしていると悪いことが起きるとよく言われます。


それは一言言ったからでなく、繰り返し言うと潜在意識の奥深くにある万物につながる共有意識に入り、連鎖していくから、口にしたことが実現されていくわけです。私はそのことと「言霊」は違うと思っています。

ウキペディアに、言葉に宿る霊的な力、「言魂」とも言うと書いてある通りですが、神の言葉に霊力があると思っています。つまり神の御言葉とか、仏の御言葉とか言うのですが、神道でいう祝詞や、仏教でいう真言・陀羅尼、キリスト教ではヨハネの福音書でいう「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と同一のことです。

我々凡人の言葉は、たわいのないものですが、古来から続く、神道の祝詞や仏教の真言・陀羅尼には霊力があることを知っておかなければなりません。なぜなら霊の領域は、4次元であり、人間は3次元の存在ですから、4次元に包摂され、影響を受けているのです。

「般若心経」はそのことを言っているのです。「空」とは霊の世界であり、4次元の世界であり神仏の世界なのです。尊敬するお坊さんたちもたくさんいますが、なまくら坊主たちはそのことすら理解していないのが現実ではないでしょうか。

日本のお坊さん達が肉的生活を送って居る限り、精神の荒廃に歯止めはかからないと思います。戒律など守れるかと言っていると、必ず罰があたると庶民は思っています。酒を飲まない、妻をめとらない、私欲をもたないということができないならお坊さんをやめて(還俗)、したらどうでしょうか。

まあお話が脱線しましたが、井沢元彦先生の著書を、再度読み返したくなった講演会でした。ご企画しただいた日田ロータリークラブの皆様に御礼を申しあげます。

それでは皆様に豊かな恵みと健康がもたらされますようにお祈りいたします。南~無 合掌 礼拝 徳温禅月。





2014年6月13日金曜日

終活フェアとエンディングノートの書き方

 おはようございます。
6月11日夜7時よりOBS大分放送「旬感3ch」で、「終活フェアとエンディングノートの書き方」が放送されました。私達のボランティアグループ「終活を楽しむ会」のアドバイザーである松尾律子終活カウンセラーが生出演し、エンディングの作成の意義と書き方について、キャスターの方々とお話しました。この番組は、大分の旬な情報をお届けしてくれるのですが、このテーマもわかりやすく、よく構成していて感心しました。スタッフの皆様に感謝を申し上げます。


終活フェアは全国各地で開催されていると思いますが、地元の業者の方々が協力して開催しています。お葬儀やお墓のこと、また遺産相続のことなどをシニア世代の方々が見れる、聞かれることは大変よいことだと思います。

               終活フェアでの祭壇ご遺影体験と入棺体験です。


最も大事なことは、自分の人生を振り返り、今までにどんなご縁があったのか、どんないいことや辛いことがあったのかをめぐらし、書き留めておくことです。それをエンディングノートと言うのですが、いわゆるライフプランノートでもあるのですが、決定的に違うのは、人生の終焉=死を意識していることです。



               真剣に書き込む飯倉キャスターさんです。

これまで生きてきた道程は自分史につながりますし、妻や子や孫、そして友人に伝えておきたいことなどを書き留めておきます。自分の生と死に向き合う絶好の機会がエンディングノート作成にはあるのです。
              松尾カウンセラーのオリジナルエンディングノートです。

松尾カウンセラーのエンディングノートの作成には、4年前にこの世を去った景流寺のご住職で小学校の教諭をされていた浅海岬先生が、大学ノートにびっしりと書いていたことがきっかけです。先生の人生の総まとめと引き継ぐべき事柄が書かれています。
               
               故浅海岬先生と先生のエンディングノートです。



終活やエンディングノートが一過性のものではなく、すべての人が、人生をより豊かに、とくに精神的に充実したものにするために多くの方が取り組んでいただきたく思っています。一般社団法人終活カウンセラー協会の認定を受けた終活カウンセラーが全国におられますのでご相談されることをお薦めします。また終活支援活動は各地の公民館活動の一環でとして取組ようにもなりました。


それではOBS大分放送の関係者の皆様、終活支援活動をされている公民館の皆様、そして人生の集大成にむけて、人生の再設計と終活活動をされている多くの皆さんのご健勝をお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月。(尚、お写真を無断にて掲載しましたことをご了承くださいませ。)




 

2014年6月11日水曜日

「仏教聖典」を読む~誤った人生観~

 おはようございます。
罪の原因をみずからの境遇や運命だと自己弁護する者がいますが、貧しいから泥棒をしたとか、むしゃくしゃした、ふと思いついた、だから痴漢した、強姦したとか、そのような言い訳が許されるはずがありません。貧しくても、一所懸命に働いて子どもたちを立派に育てあげた方はたくさんおられます。自分の感情をおさえ、自らを律して生きている方も五萬といます。

お釈迦様は、誤っ人生観を持ってる方がいることを指摘しています。

「この世の中には三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、すべて神のみ業であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。・・・・・」


運命であろうはずがない。幸福になることも不幸になることも運命で定められているなら、生きている価値すらなくなってしまいます。仮に運命なるものがあってもそれは努力で変えられるものです。だからどんな人も成長できるのです。

神のみ業のせいにしたり、また悪霊のせいにしたりする方もいますが、神は自ら助ける者を助けてくださるのです。努力もしないものに、神は手助けなどしてはくれません。また悪い時は、悪霊のせいにする人もいますが、悪霊を呼び寄せるのは実はその人なのです。確固たる自分を持つことです。信仰はそういう方に働くのです。

結果には原因があり、すべて縁起でものごとが起こっている天地宇宙の原理原則を知らなければ豊かな人生を送ることはできません。幸も不幸もすべて原因と結果の法則にあるのです。

「だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)P47~-

わたしは、あらゆる世界の成功哲学を読んできましたが、釈尊の教えほど理にかなったものはありません。つまらぬセミナーに出る暇があったら、この仏教聖典を毎日読みませんか。必ず成功します。成功とは豊かな人生を送ることです。


それでは皆様の人生が豊かでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。







2014年6月10日火曜日

「仏教聖典」を読む~理想の生き方~

 おはようございます。
昨日、現実の世界がどのようなものであるかを書きましたが、子どもを放置して自分は女のところに行き、死にいたらしめたり、女子高生を殺害し、山に遺棄するなど、餓鬼よりひどいことが日常茶飯事に起きています。悪魔・悪霊に憑依された人間がうようよしていることを教えなければなりません。

昨日、「聖書」のなかの「マタイの福音書」を読みかえしましたが、この現実世界をありありと書いています。宗教団体もあてにならない。隣国の宗教団体の最高責任者は、自己責任を明らかにせず、逃亡しています。これらの者はすべて悪魔に魅せられた人間です。

仏教聖典に「悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。」と書いています。このような現実の世界のなかで我々人間の生き方がどうあるべきかをお釈迦様は述べています。これが理想とする人間の生き方です。

「教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るとkろの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。

この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。

妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、こころの治める心の王国となる。

まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。

ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。

まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)P244-9行ー


仏の国を、神の国と置き換えると、聖書が述べていることと同一だと思うのです。クリスチャンの人は毎日、朝に夕に、聖書を読みます。仏教徒と称する日本人は今、何を指針としているのでしょうか。

わたしがこの仏教聖典を読むことをお薦めしているのは、真理を説き明かしているからです。宗教団体に入る必要のないし、欲にまみれた坊主の話を聴く必要もありません。毎日、少しづつ読んで、血肉にするのです。個人でも、ご家庭でも、この立証された仏教聖典を読みましょう。

それでは、皆様が危険から守られますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。






2014年6月9日月曜日

「仏教聖典」を読む~現実の世界~

 おはようございます。
この世は、魑魅魍魎の世界かもしれませんね。昨日、熊本で、高校生の遺体が発見されましたが、容疑者は静岡の47歳の無職の男だそうですが、なぜ顔見知りになったのか不思議でたまらない。ご両親はいたたまれないと思います。その無念ははかりしれないでしょう。

この「仏教聖典」は巻末に生活索引がありますので、今、考えていることや悩んでいること、苦しんでいることなどの項目を読むことができるように構成されています。至れり尽くせりですね。


今日は、この現実の世界について、お釈迦様が述べているところを抜粋します。P100の11行です。

「またこの世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみ合っている。

二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

四つには互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉い者であるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。」ー「仏教聖典」(仏教伝道協会)-

解説する必要のないくらい、この現実の世界を言いあてていますね。ではどうあるべきかは、この仏教聖典に答えが書いています。これを毎日読んでいる人と、本能のおもむくままに生きている人とでは、月とすっぽんなのです。

それでは皆様の現実の生活が、良い方向に変わりますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。






2014年6月5日木曜日

宗教とは教戒である

 おはようございます。
小さい頃から悲観的ではなく楽観的に、消極的ではなく積極的にと教えられてきました。一昨日北海道では37度の猛暑日を記録しました。九州は猛暑日から梅雨入りし、朝晩が涼しいどころか寒くなりました。

エルニーニョ現象という奇怪な天候を作り出したのは、神様でしょうか、人間でしょうか、人間です。人間は、人間同士で殺し合い、動物を殺し、自然を破壊し、公害を作り出し、権力闘争に明け暮れています。だから本当は、悲観的に、消極的に物事を視ることも大事だと思うのです。

2500年前、消極的でもなく、積極的でもなく、悲観的でもなく、楽観的でもなく、中庸の心で物事を正しく見、正しい行動することを説いた方がおられます。そのお方は、お釈迦様、仏陀、釈尊、釈迦牟尼仏と言われた方です。
                   ウキペディア「釈迦」より涅槃像

仏教聖典のなかの最期の教えの5で、仏陀はこのように言っています。
「仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体は滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知るものこそわたしを見る。

わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。・・・・・

弟子たちよ、今やわたしは最期である。わたしは今より、涅槃に入るであろう。これがわたしの最期の教戒(きょうかい)である。」-「仏教聖典」(仏教伝道協会)ー

つまり仏教(宗教)とは、宇宙の原理原則、天地万物の法則、人間の本質を説き明かした教えであり、この地球で生きるための戒め(いましめ)であるのです。だから宗教は、あいまいなものでなく、教戒なのです。そして教育が必要なのです。

2500万年前から、人間が仏陀の教戒を守り、生き続けていたら、歴史は違っていたでしょう。しかし現実は、人間の欲望が渦巻き、どれだけ多くの血が流されていったのでしょう。それでも仏陀は、いつでも教えにかえるように諭しているのです。

これから、梅雨入りし、天候が悪化しますが、皆様が安全無事でありますようにお祈りいたします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。





2014年6月4日水曜日

殺すなかれ!

 おはようございます。
九州でも昨日から梅雨入りしました。日田市では、全国一位の温度を記録して、紫陽花は今にも、うなだれて枯れそうになっていました。水をかけていましたが、1昨日からの雨で生きかえったのです。天地万物、すべてのものに命があります。

釈尊は言いました。「殺すなかれ」と。それは人間同士を言っているのではありません。山川草木、すべての生きとし、生けるものすべてを殺すなと言っているのです。人間が生きるために、食物をいただくことは、他の植物などのいのちをいただくものです。それ以外は認められないのです。

昨今のペットに対する人間の身勝手から、捨てる、売り物にするため異常な交配をさせる。しまいには殺処分してしまう。人間界では、親が子を殺し、子が親を殺す、大切な友人でさえ殺す、そのようなニュースがいとまもなく流れてきます。

都会では、親が死んだら火葬して、そのままお骨は処分してもらう、そのようなことを推奨する新興宗教すらあるのです。世は末を言われたましたが、まさに今がそうかもしれません。そのようななか、殺処分ゼロをめざして頑張っている方々がいます。下記のBUZZNEWSを読んでください。


「犬・ネコ殺人ゼロ」を掲げる、ある動物センターの姿勢に感動


年間、20万匹以上……
あなたは、この数字が何をあらわしているか、わかりますか?
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実はこれは、日本で殺処分される犬・猫の数です。
一日に換算すれば、約550匹。今、この瞬間にも、かけがえのない命が殺されていっているのです……。

・殺処分の仕組みとは?
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・【殺処分の法的根拠】狂犬病予防法第6条九項「犬を抑留したとの通知を受け取った後又は公示期間満了の後一日以内に所有者がその犬を引き取らないときは、予防員は政令の定める所により、これを処分することができる」
・【引き取りをする法的根拠】動物の愛護及び管理に関する法律(動愛法)第35条「都道府県等・・・は、犬又はねこの引取をその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。・・・」
つまり、非常識な飼い主が希望しさえすれば、罪のない犬・猫が殺処分に処されてしまいます。それが、今の現実なのです……。

・合言葉は「嫌われる行政になろう」
「殺処分ゼロ」を掲げる、熊本市動物愛護センターとは?

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そんな過酷な現状に立ち向かうために、熊本市動物愛護センターは立ち上がりました。彼らの目標はただ一つ、「犬・猫の殺処分ゼロ」です。
・「殺処分ゼロを目指す」2002年、熊本市動物愛護センタ-の職員たちは実現不可能とも思えるそんな目標を掲げた。合言葉は「嫌われる行政になろう」
・「H13年に淵邉さんという人が所長になりました。淵邉さんは当時の施設の状況に『どぎゃんかせんといかん』と思ったそうです。職員一人一人に尋ねるとみな、自分の心を押し殺していたようで、一様に『もう殺処分はしたくない』という反応が返ってきました。
・ある時、ポストイットを使って、ブレーンストーミングを行った所、実はみんなの思いは一つだったことが分かりました『殺処分0を目指す』ということです。


・なぜ、「殺処分ゼロ」を目指すと「嫌われる」のか?
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しかし、なぜ「犬・猫の殺処分ゼロを目指す」と、「嫌われる行政になる」のでしょうか?その秘密は、安易にペットを捨てる飼い主に対する、センター職員の毅然とした態度にあります。
1、無責任な飼い主とは闘う。
・「噛み癖があって飼えない」60歳代の男性はそんな理由で、コ-ギ-を持ち込んできた。元々飼っていた息子が海外転勤になり、自分が面倒を見ることになったという。「犬が悪いことをしたんだから、罰を受けて当然だろう」そう主張する男性に対し、小山信係長がこう詰め寄った。「噛んでいいと教えてしまったのはあなたの息子ではないか。息子の失敗を、なぜこの犬が命をかけて償わなければいけないのですか
・またある時は、引っ越しで飼えなくなったという女性が来た。小山さんはまずこう諭した。「ここに来れば、この犬は命を絶たれます。飼い主としての最後の責任を果たすため、新たな飼い主を探してください」だが、女性は、30人ほどの知人にあたったが、見つからなかったと説明する。それでも、小山さんは食い下がる。「たった30人に聞いて回ったくらいでこの犬が殺されるなんて、理不尽じゃないですか?
2、飼い主への指導を行う。
・熊本市の愛護センターでは、安易な引き取りをせず、『この犬と暮らした日々を思い出してください』『引き取り手を真剣に探しましたか?』といった指導をします。
・場合によっては、飼い主を殺処分に立ち会わせる
飼い主に犬を抱えさせたまま、獣医師が麻酔薬などを静脈注射する。犬は飼い主の腕のなかで痙攣しながら亡くなっていく。そんな経験をした飼い主は「二度と飼わない」などと言い残し、帰っていくという。
・「本来、市の窓口は市民に嫌な思いをさせてはいけないのですが、犬を捨てに来た人には、嫌な思いをしてもらおうと決めました。窓口では時には声を荒げてでも説得し、翻意してもらおうと考えたのです」
・「嫌われてもいい。泣かせるくらい、飼い主に『何をしているんだ』と問うべきなんだ」と強く指導する。
・ときには言い合いになったりもしますが、粘り強く説得することで、ペットをもう一度飼い主の元へ戻すことへ成功しています。

・施設内では、犬の飼い方も、愛情が感じられます。
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・犬たちは檻の中ではなく、一匹ずつ、日当たりの良い屋外に
・ご飯のあげ方も特徴的です。一匹ずつ皿が用意され、公平に配られます。
・檻の前には一頭一頭、名前と性格シートが掲示されています。

・そして、圧倒的な成果
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平成14年度には393頭の犬・猫が殺処分されていましたが、平成18年度には59頭、平成21年度には7頭に減りました
・もう飼えないからと持ち込まれるペットの数も平成14年度には242頭でしたが、平成23年度には32頭にまで減りました

・しかし、まだまだ厳しい現実が存在する……
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熊本市動物愛護センターは、以上のような素晴らしい思想のもと、見事な成果を出してきました。しかし、現実はまだまだ厳しいのが現状です……。
・熊本市動物愛護センター(同市小山)は25日、犬3匹を殺処分したことを明らかにした。26日も犬3匹の処分を決めている。
・昨年度は1匹だったが収容数が限界を超えていたこともあり、「苦渋の決断」(同センター)を余儀なくされた。
・同センターで一度に収容できるのは施設規模から50~60匹程度が限界。昨年度から満杯状態が続いていた。
・収容キャパを越えた状態での保護をされていた結果、感染症の発生等を懸念

今も熊本市動物愛護センターでは、「殺処分ゼロ」をめざし、日々、努力しています。しかし、その目標を達成するためには、なによりも、一人ひとりの飼い主の意識の変化が必要です。飼い主が、最後まで責任を持ってペットを飼うことこそが、最も重要なことなのですから……。
彼らの取り組みが一人でも多くの人に知られ、罪のない命が奪われることがなくなることを、願ってやみません。 ーBUZZNEWSよりー



2014年6月3日火曜日

「仏教聖典」を読む~最後の教え4終活~

 おはようございます。
お釈迦様は、最期が近づいてきたとき、教えを弟子たちに語りかけたのです。

「弟子だちよ、わたしの終わりはすでに近い。・・・・・
世は無常であり、生まれて死なない者はない。わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
・・・・
煩悩の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。

煩悩の賊はおわなければならない。煩悩の蛇はださなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。」-仏教聖典(仏教伝道協会)-

わたしは、自らの終活と、終活支援活動をしていますが、生と死、そして生老病死に向かいあうことが終活の第一歩だと思っています。宗教とは何かと言ったら、書いて字のごとく、おおもとの教えであります。

釈尊が悟った法(天地の原則)は実に真理であり、その法を知ることが生きていくことではないでしょうか。ある牧師先生が、もし金魚鉢のなかの金魚が自由になりたいと言って、金魚鉢からはね出たら、間違いなく死ぬでしょうとお話していましたが、その通りです。

金魚鉢とは、真理あるいは法ですね。法を知らずに生きているなら、その人は煩悩の虜になって身を滅ぼすのです。

ある公民館で、終活を「いとまごい」事業として取り組んでいるところがあります。いとまごいとは暇をくださいと申し出ることですが、死を意識して、煩悩の生活から脱却して、自分を見つめていくことですね。素晴らしい活動だと思います。

わたしもあなたもいつか、煩悩にほんろうされることなく、静かに永遠の眠りにつくことができるのです。それまでにしたいこと、すべきこと、善きことを悔いがないようにしておこうではありませんか。

それでは皆様の人生が実り多いものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。





2014年6月2日月曜日

「仏教聖典」を読む~最後の教え3~

 おはようございます。
先日、由布院に行き、友人のお仏壇におまいりして、散策しました。夏の風が吹きわたり、木々が青々と生い茂り、さわやかな気分になりました。お釈迦様はインドの山や谷を歩き、村々で説法したのでしょう。

仏教聖典の1章、2節に最期の教えとなっていますが、とても省略できないので、皆さんに全文をご紹介したいと思っています。

「三、弟子たちよ、おまえたちはおの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。

ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実をとるがよい。

弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。

だからこの教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。またこの教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。」ー仏教聖典(仏教伝道協会)ー


聖徳太子ほど、仏教理解し、現実の政治に活かした方はいない。そしてそのことは今日の日本の礎になっています。太子のもっとも重要なお言葉は「和をもって尊しとせよ」で、相和し、相敬い、争いを起こしてならないという思想です。

現代社会のなかで、生きてゆくとき、相手がどのような考え方をしているかを理解して、付き合わないと問題が生じます。政治思想や宗教観がその人に影響を与えているわけですから、おのずと行動にも現れてきます。

世界を見渡すと、今大きく世界が二分してきているように思えてきます。共産主義・全体主義の亡霊が甦ろうとしています。仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教と共産主義思想は、マルクスが提起した時から相入れないものだと思っています。

民主的国家でないところとどのように対峙していくか、付き合っていくか、水と油ははじきあうのです。世界のすべての国が真の意味で民主国家にならないかぎり、宗教や思想の自由も、認められないし、一部の特権階級のみが富を独占しているのです。

さて、そのような世界情勢のなかでも、仏陀の教えを守り、つまらないことに心をつかうことなく、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘もうではありませんか、道の果実を得ようではありませんか。

仏陀は言っています。時間を超えて、この教えの通りに行う者は、わたしとともにいると。それでは皆様の人生が豊かなものでありますようにお祈りします。南無釈迦牟尼仏 合掌 徳温禅月。