私が終活の支援活動をするようになったいきさつがあるのですが、5年ほど前から60歳の定年退職を前にして、還暦退職するか、定年延長するかを迷っていたとき、59歳の時に、兄(享年66歳)と友人(享年57歳)を亡くしたとき、人の死のはかなさを知ると同時に、自分にも死がいつ訪れるやもしれないと思うようになり、「生と死」について自分なりに納得したく、翌年から東京国際仏教塾に通うために、60歳で定年退縮しました。
日田市の地元新聞社が4月5日の終活講演会を取り上げてくれました。
特に兄は、ある新興宗教団体に属していました。1月に具合がよくないと電話があり、どうも癌らしい、そして3月に医大病院に入院しましたが、余命わずかとのことでした。兄を見舞うたびに、死と葛藤をしているなと感じました。
そして、再入院してから、死にいたる寂しさや辛さをにじませていましたので、こころに平安がないのだなと思いました。ほとんどの人がそうかもしれませんが、その宗教団体の教えは、死んだらすべてなくなるとのことでしたので、不安だったと思います。
7月に息をひきとり、葬儀もしてはいけない、お棺にお花もいれてはいけない、納骨もしてはいけない、と火葬が終わったら、義姉(兄の嫁)が火葬場に処分をお願いしていました。非常に憤りと不満を覚えました。
兄がこの似非キリスト教の新興宗教に入会していましたので、いつか話をしなければと、正式な教会でキリスト教の勉強をしていました。いまひとつ納得できないものがありました。それは神と人の関係は明確であっても、人と人、人と自然、そして先祖のことなどが明らかではありませんでした。
友人は、同じ年の8月に、ある日突然亡くなったことが知らされました。ゆっくりなったら飲もうと話していましたが、仕事の忙しさにかまけて、あまり会っていなかったのでもうしわけなく、大切なものはなにかを思い知らされました。
もうひとつは、神に祈る行為は正しいのですが、祈る行為のまえに、心を静める方策が見つかりませんでした。天風会の修練会で、安定打座による瞑想をしてから、これだと思いました。どこからきているかと勉強しましたら、ヨガと仏教からきているとのことでしたので、書物は読んでいましたが、きちんと仏教の勉強をしたいと思い、東京国際仏教塾に約1年半ほど東京に通ったわけです。
そんなおり、熊本市で一般社団法人終活カウンセラー協会の武藤頼胡さんの終活講演があるとネットで知り、早速言ってみました。私は30代後半から人生は目標と計画を立てて生きるべきだという考えを持っていましたので、武藤頼胡さんのいう人生の終焉を考えることを通して、自分を見つめ、今をよりよく自分らしく生きる活動のことを終活というその支援活動をしていることに共感し、現在に至っているわけです。
終活と言っても、いわゆる老後(退職後)の生活から、これからの保険の見直し、動けなくなったら介護をどうするのか、同時に今のおふくろの介護のこと、遺産相続のこと、そのための遺言の書き方、葬儀はどのようにしてもらうのか、また納骨はどうするのかなど、その範囲は広いわけです。
まずは、退職後からの老後の生活ではないでしょうか。次回それについて書きます。それでは今日一日皆さんが安全で無事でありますように祈りします。よい週末をおすごしください。南~無 合掌 徳温禅月。
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