昨日、天瀬トレイルで顕徳坊尊に登ったのですが、かねてより顕徳坊尊について調べて欲しいとも地元の方々からのご要望があったので、調べていくと驚くべきことがわかりました。
顕徳坊尊の案内板
以下のように書いていわけですが、
「顕徳坊尊は、江戸時代後期出羽国米沢領田沢村(現在の山形県米沢市)生まれです。当時米沢領は上杉氏の所領であり(徳川家康より会津120万より国替え)この地帯は豪雪地帯としてよく知られております。
顕徳坊尊は一生を信仰と修行で過ごされた無冠の僧であります。ある日突然、一人の旅の僧が湯山村に来ました。不幸にして病に倒れ、この地に亡くなりました。その時、村人達に持ち金全部を湯山村に差し上げます。どうか生まれ故郷が見える場所に葬ってくれるよう頼みやがて力なく亡くなりました。村の人々は其の志を憐みせめて故郷をみはらせる思いでもなればと村で一番高い長美野(現在地)に葬りました。その後その金で現在の湯山共有地の一部を買い求め葬った場所へ塚を築き、顕徳坊尊として祀りました。顕徳坊尊は文化年間今から180年前頃より、この地域に住む人々にとりましては、日々の苦しみ、悲しみなど諸々の願望をお願いし御加護御利益をいただく霊験あらたかなお方であります。顕徳坊尊のあらたかな霊験は人から人へと言い伝えられ、たくさんの信者がはるばる参詣に来るようになり、風光明媚な山頂は、終日にぎわいを見せていたと言われます。旧湯山村では毎年4月21日に現地でお祭りをして居ります。御堂裏の碑正面には奉納大乗妙典六十六部日本回国、又側面には、文化九年六月二十一日、奥州米沢領田沢村 浄玄 七十九歳と記されてお
ります。」
顕徳坊尊さんは神々しくふくよかなお顔をされています。
1、年代の比較を比較してみると、
顕徳坊浄玄 1733年~1812年 79歳 36歳 70歳家督承継?
上杉治憲鷹山1751年~1822年 72歳 藩政改革1769年
広瀬淡窓 1782年~1856年 75歳 1805年開塾
穴井六郎衛門1733年没 義民
禅海和尚
1691年~1774年 83歳 青の同門
上杉鷹山が藩政改革に乗り出したとき、浄玄は36歳で、一番脂ぎった頃、鷹山は、家来に山野を開墾し農地にすることや、漆、コウゾウ、桑の木を100万本づつ、計300万本植林した。これが後の財政基盤になるのですが、いわゆる半士半農で、この危機を乗り切ったのであります。特に田沢地区などは開墾地区であり、浄玄などが力を注いだもの思われます。
2、浄玄の宗派は
米沢市の寺は、寺数が多いのは曹洞宗(禅宗)、浄土真宗、真言宗の順番ですが、碑文にある大乗妙典六十六部とは法華経を奉納する巡礼者ですので、法華経を扱うのは、天台宗、日蓮宗そして禅宗でありますから、現在田沢町にある曹洞宗田澤寺(でんたくじ)が出寺と思われます。
3、もともとの僧であれば、無冠ではないので、出家し、修行僧として全国を遊行してきたものと思われます。この場合は、藩主の許可がいり、鷹山は尽力した浄玄に報奨金を与え、通行手形を出したものと思われます。禅海和尚の父親が曹洞宗で六十六部でした。
4、上杉家とどのような関わりであったか。
「景虎1552~1579輝虎嗣北條氏康子長綱嗣北條竹王丸三郎氏清?政景要山浄玄」という、浄玄という同じ戒名を名乗る上杉家血族が居たので、そのことからしても同じ戒名で出家したということは。上杉鷹山の家来であることに間違いはありません。よっとしたら、景勝に敗れた景虎の血を引くものかもしれません。
5、浄玄は、天瀬に何をもたらしたか
信仰の御利益と、上杉鷹山の藩政改革による開墾時代の営農・営林の方法を教えた。病を癒し、村人に希望を与えたものと思われます。
1から5の展開をしていけば、間違いなく顕徳坊浄玄は、上杉鷹山の家来であったと言えるのではないでしょうか。全国の歴史ファンの皆さんのご意見をお聞きしたいと思います。それでは、顕徳坊尊さんのご遺徳に感謝し、南無 合掌 徳温禅月。
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