2014年4月25日金曜日

顕徳坊浄玄はなぜ遊行の旅にでたのか?

 おはようございます。
初めてこのブログを読む方は、顕徳坊浄玄(1733~1812年)が誰だかわからないと思いますが、江戸時代、米沢藩から出家し、豊後(大分県)の天瀬で生涯を閉じた無冠の修行僧だといわれていますが、前回、ブログで述べたように、上杉鷹山の家来で、鷹山の藩政改革に尽力した武士だと思います。

本日の大分合同新聞の顕徳坊尊まつりについての記事がでていますが、小生の意見も載せてくれいます。


さて、顕徳坊浄玄は豊後天ケ瀬で亡くなったのは、古希を過ぎた79歳でした。どうして高齢なのにこのような旅にでて、この地で生涯を閉じたのでしょうか。それは遊行の思想がこのころからあったからです。

おそらく、米沢を出たのは70歳の古希の祝いをすませ、家督を息子に譲り、旅立ったのではないでしょうか。遊行については五木寛之さんが「遊行の門」(徳間書店)で次のように書いています。

「 『遊行期』とは、人生の最後のしめくくりである死への道行きであるとともに、幼い子供の心に還っていくなつかしい季節でもある。
 旅とは行きっぱなしのことではない。旅立った者は帰るのだ。
・・・・
 この世に生を受けた人間は、ちゃんと世を去ってこそ人生である。そのしめくくりが遊行期であり、人生においてもっとも重要な季節といえるだろう。
 遊びにでた者は、いつかは帰らなければならない。」

「 すべての人が、いずれ「林住期」を終えて「遊行」の季節に入る。「行」は「業」ではない。「修業」は技術であり、職業訓練ではあるが、「修行」は見えない大事なものを捜す旅である。「遊び」も「行」だ、と思いたい。
 人は遊行の門をくぐって出発し、ふたたび遊行の門をくぐって還る。
 人の一生とは、そういうものなのではあるまいか。」 ー遊行の門 五木寛之著 徳間書店


今、流行り?の「終活」はまさに遊行であるわけですが、もっと精神的な、奥深い魂の故郷を求めて、旅立つものだと思います。顕徳坊浄玄は、古希を過ぎ、残された時間は御仏から頂いたもの、自らの浄化の旅にでたのではないでしょうか。

その思想はお遍路と同じだと言えましょう。少年時代、どこの家も犬を番犬として飼っていました。犬は老齢になると離し飼いをしていましたので、自然にいなくなるのです。そしてどこにいったかもわかりませんし、その死骸をみることもありませんでした。

人間にも同様の自然な行為がインプットされているのかもしれません。顕徳坊浄玄は二度と米沢に戻ることのない旅に出たのです。人はみな、魂の故郷へ帰る準備をしなければなりません。還暦をすぎたら人生を、生と死を見つめてみませんか。

それでは皆様の遊行の旅立ちのご無事を祈りつつ 南無 合掌 徳温禅月。




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