おはようございます。
昨日は、お釈迦様のお誕生日でしたので、静かな日をすごしました。今朝、陽が昇るころ、散歩していますと、桜の花が風もないのに、落ちてくるのです。見上げると、小さな鳥が桜の花をついばんでいるのです。そう鳥の子どもたちです。
春はいのちが芽生える季節ですね。山に行けば草木が新緑を見せてくれます。つくしんぼもみるみる生えてきます。河をのぞくと、小魚がどこからでてきたのでしょう。たくさん戯れています。いのちがあふれる春は、仏と出会うのです。
仏はどこにいるのでしょう。道元さんは正法眼蔵で、
「なんとしてかさらに山色を見、
渓声をきく。
一句なりとやせん、半句なりとやせん、
八万四千偈なりとやせん。
うらむべし、山水にかくれたる声色あること。
又よろこぶべし、山水にあらわるる時節因縁あること。
舌相もげけんなし、
身心あに存没あらんや。しかあれども、
あらはるるときをや、ちかしとならふ、
かくれたるときをやちかしとならはん。・・・・」
傍訳
「どうしてさらに山の緑に仏を見、谷水に無心の声を聞く。仏陀の生身の真実語でないと言えようか。限りない説法そのものではないと言えようか。悲しむべきです。仏陀の説法の声が山水の声色に隠されてよく聞こえない事を。しかしまた喜ぶべきです。仏陀の説法の声が山水の声色に現れてくるご縁のある事を。説法も休むことはないし、仏陀のお体は現れ通しで、出たり隠れたりはしません。ですからこそ見える時を近いというべきか、見えない時を近いというべきか。・・・・」
(「生き方学としての正法眼蔵」~天地自然に自己を見る~ 中野東禅著 四季社より)
いつもあなたのすぐそばに仏はいてくれるのです。そいて生きるちからを与え、良き事へ導いてくださるのです。すべて自力でしたと思っていると、増上慢なり、傲慢になり、感謝するこころをなくしてしまいます。仏が共にいてくださるからできるというこころには、いつも感謝にあふれています。それは自力も他力も超えた天地宇宙の神仏のおかげではないでしょうか。
それでは皆様のご健勝を祈りつつ 南~無 合掌 徳温禅月。
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