2014年4月22日火曜日

顕徳坊尊は上杉鷹山の家来かⅡ~顕徳坊尊まつり~

 おはようございます。
20日、大分県日田市天瀬町湯山長美野にある顕徳坊尊さんのご供養を執り行う、祀りがありました。地元の住民など40名近くの方が参加していました。顕徳坊尊とは、戒名を浄玄といい、出羽国米沢領田沢村より遊行の果て、文化九年(1812年)にこの地で亡くなりました。


私は、二百年余りに渡って、村人がなぜ顕徳坊尊浄玄さんを手厚く葬り、祀ってきたか疑問に思い調べてみました。


年代を調べてみると、上杉治憲鷹山さんと附合していたので、驚きました。つまり浄玄さんは、上杉鷹山の家来で、鷹山の藩政改革に尽力した下級武士と思われます。半士半農であったため、農業や林業にも精通していたと思われます。

江戸時代は、勝手に藩を出て、旅をすることはできず、藩主の許可を取って、通行手形を発行してもらうのですが、おそらく35年に及ぶ開墾事業を継承し、七十歳で隠居して全国遊行の旅に出たものと思われます。

浄玄さんは、なぜ天瀬の人に慕われ、尊敬され、祀られたのかを考えると、まずは、仏教修行者として加持祈祷が出来て、病を治す力を有していたかもしれません。次に、前文で述べたように、藩政改革にかかわって、農業や林業のすべを知っていたので、天瀬の住民に教えたのではないでしょうか。

代官の悪政に苦しみ農民に、隠れ田の必要と、米以外に、はぜの植林を教え、ろうそくを作り、それを高塚地蔵尊で売り、生活の糧にするように言ったとしたら、今も続く高塚地蔵尊の露天は江戸時代からあったものと思われます。


穴井六郎衛門さんたちの斬首から七十年後の天瀬はまたもや飢饉で苦しんでいたと思われます。そのときに一条の光明をもたらしのが浄玄こと顕徳坊尊さんなのです。明治になって、竹槍騒動をおこし蜂起しますが、天領時代からの圧政のなかで反骨精神が育ったのではないでしょうか。今は薄れているようですが・・・。

それでは顕徳坊尊浄玄さんのご供養をお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月。






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