2013年8月26日月曜日

「空海の風景」を読むⅧ-運命と奇跡ー

 おはようございます。
先週は、全国的に天候が不安定で、豪雨による災害、逆に高温と干ばつによる農作物にも被害が及んでいます。地震、津波、竜巻、雷、豪雨のどれひとつにも人間が対処できないことを現代人は思い知れというばかりに自然界は猛威をふるっていると感じるのは私だけでしょうか。

そして、人間が作った原子力発電事故による多大な被害と被災者の痛み、まったく終息の見通しすらたたない福島原発事故、ましてやそれを輸出するという日本政府と財界の対応、官僚システムで作られた東京電力の対応、何ひとつ解決できないのが現実として重くのしかかっています。

聖書では、神は人に地球(生物)を管理することを託したと書いてますが、西欧文明の欠点はそこにあると思っています。人間が自然を征服することなどできないし、山や森、川、海、動物や植物の守ることはできないどころか、人間のエゴのために、どれだけ多くのいのちを奪っていることか。

人間は、最終兵器と言われる原爆をつくり、その実験に広島と長崎におとし、多くのいのちを奪ったそして、今日、中近東では自分達のエゴのための内戦をおこし、自国民に化学兵器を使い、殺戮している。

平和利用という原子力発電に対して、事故回避もできないし、対処もできない。廃棄物処理の解決もなしに運転稼働をしようとしている電力会社の厚顔無恥な態度に憤りを国民は感じている。もし現代に空海さんが生きていたら、どうするでしょうか。

さて空海さんが渡航を許されたことも奇跡に近いし、唐への航海で漂流し、唐に着いたのも奇跡です。その後、目的地長安へ向かうまでのいわゆる地方の知事との折衝もまた奇跡に近いのです。そのあたりの事情と様子を、司馬遼太郎さが「空海の風景」に描いているので読んでいただきたいと思います。


すべて、人知の及ばない出来事が起きているのですが、もっとも奇跡に近い、数奇な運命は、密教
第七祖の恵果阿闍梨にあうことで、このとき、この長安でしか会えないのです。この場面は歴史上、偶然に起きたものではなく、神仏のご加護のもとに時を刻んでいたのです。

恵果阿闍梨は、「われ先に汝が来たることを知りてあい待つこと久し。今日あい見ることはなはだよし、はなはなよし」と言っているのです。約2000人の弟子が居ながら、空海を待っていたのです。そして密教のすべてを空海に伝授するのです。

空海さんもまた、恵果阿闍梨に会う前に、日本いにいたときから中国語を勉強し、長安に着いて般若三蔵から梵語(サンスクリット語)を集中して学ぶのです。空海さんをかきたてたものは、「三教指帰」を書いたときに、人間が作った儒教や道教ではひとを救うことができないと言う確信があったからこそ、ひとを救う道は、仏教(密教)しかないという確信を持っていたのです。

神仏などいないとうそぶく輩がいますが、そういう連中ほど携帯電話に夢中になり、ソマートフォン依存症にかかっています。電波という目に見えないものは信じるが、眼に見えない神仏は信じない。会ったこともない人とメールするが、見えないと言って神仏への祈りはしないのです。

釈迦は菩提樹の下で座禅瞑想して仏陀になりました。イエスはクムラン洞窟で瞑想し、キリストになりました。空海は太龍岳や室戸岬で修行し悟りを得ました。では瞑想とはなにでしょうか。それは神仏を会話するための手段であり、人間の煩悩を断ち切り、無念無想の境地に入ったとき、神仏と同じ境地になるのです。

そして神仏との語らいは、神仏をあがめ、祈ることです。仏教ではそのためにお経を供えるのです。キリスト教では、聖書の御言葉を唱えるのです。大自然も自ら作ったものもコントロールできない人間が祈ることをしなくなったとき、どうなるかその前章がいま現実世界に起きていることではないでしょうか。お墓参りはするが祈らないのは、まさに無知厚顔で荒唐無稽なのです。

神仏はひとりひとりに今世で生きる目的を与えてくれています。静かに座禅し、祈ればおのずと答えは聴こえてきます。












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