司馬遼太郎さんが、空海という巨人を題材にして、なぜ、このノンフィクションを書いたか疑問に持ちながら、読んでいますが、人間空海を抉り出す洞察力に感嘆する箇所がいくつも出てきます。大学をやめ、というより儒教でなく、仏教を選んだ空海の進路には多難な壁が立ちふさがっているからです。
おそらく、華厳経や法華経、維摩経など飛鳥から奈良時代に伝わってきた仏典を読み漁っていたのではないかと思います。司馬さんが言うように20歳前後の青年にのしかかる性欲という煩悩の火から逃れられない自分を忌避しながら、仏道を求めて行ったに違いありません。この辺の観察力というか洞察力に感心しながら、楽しみながらこの本を読むのもいいものです。
但し、題材が宗教の本質に迫ろうとしているので重いかもしれませんが、仏教や真言密教の入門書として読んでもいいかなと思います。
島根県太瀧嶽にいたであろう狼たち、空海はここで修行したのです。
さて、青年空海はまだ佐伯真魚という名でしょうが、仏道への一歩を踏み出してしばらくしたのち、一沙門に会い、『「学生よ。お前がそこまで仏法のことに熱心ならいい工夫を教えてやろう」と、一沙門は、この儒生に万巻の経典をたちまち暗誦できるという秘術を教えたのである。』
これが「虚空蔵求聞持法」という秘法なのですが、中野東禅先生の「仏さま白書」(四季社)によりますと、『虚空蔵菩薩は梵名を「アーカーシャ・ガルバ」といい、虚空のように広大で、尽きることのない智恵と福徳を生み出し、衆生を包むという意味です。つまりすべての人に分け隔てなく智恵を施す仏です。それはどんな罪深い人も見捨てないという徳をもちます。そこから智恵を授かる信仰がさかんになりました。とくに「求聞持法」という修法で、虚空蔵菩薩の名を五十日ないし百日の間に百万回唱えると、記憶力が増進すると言う信仰で、そうした智恵を「自然智」といい、文殊菩薩の智慧と違う智恵です。』
「空海の風景」のなかでも詳しく書いているが、司馬遼太郎さんは「虚空蔵求聞持法」についてもよく調べているなと感心します。空海は、奈良大和の山々で修行したでありましょうが、自らの最初の著作「三教指帰」に「阿国大滝嶽にのぼりよち 土州室戸崎に勤念す」と書いてあります。
阿国大滝嶽は、徳島県阿南市加茂町の険しい山です。現在山頂に二一番札所太龍寺があります。空海が座禅している姿です。
土州室戸崎とは、高知県室戸市室戸岬で、御厨人(みくろど)窟で修行したのです。
ここで、「虚空蔵求聞持法」を修法するのです。朝晩、虚空蔵菩薩の真言である「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」と100万回唱えるのです。意味は違いますが、たとえば日蓮宗の「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることや浄土宗や真宗の「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることも似ていますが、百日間100万回唱えるとなると並大抵ではできません。
この結果、真魚は、明け方、「明星来影す」と書いているように、明けの明星が口の中に飛び込んでくる神秘的体験をするのです。空と海が一体になる空海が誕生するのです。このとき、理屈ではなく、仏法こそ、宇宙の真理であることの確信をつかんだのです。
御厨人(みくろど)窟の中から見ると太平洋が見えます。
「吹く風を止められないように、自分の出家をだれが止められようか」と語り、自分自身と両親に対して日本最初の戯曲と言われた「三教指帰」を書くのです。明日はそのことを「空海の風景」を読みながら書きましょう。乞うご期待。
参考図書
「空海の風景」 司馬遼太郎著 中公文庫
「仏さま白書」 中野東禅著 四季社
「図解空海」 頼富本宏監修 ナツメ社
「虚空蔵求聞持法」 田中成明 世界聖典刊行協会
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