おはようございます。
世の中に軽薄な人間が増えていることは、昨今のニュースを見ていると誰もが思っていますが、このようなご時世のときはあぶないのです。つまり利己主義的な欲望にのみ目が行き、他人の迷惑を顧みない人間は、社会や政治に関心を持たないからです。政治は衆愚政治と化す危険性があるからです。
さて空海さんは、第七祖恵果阿闍梨から灌頂を受けるのですが、その儀礼の中に投華得仏という作法があります。空海さんが目をつぶって真言を唱えながら、敷曼荼羅の上に樒の小枝をなげると、二回とも大日如来の上に落ちるのです。それは空海さんの守護仏は大日如来(宇宙の中心)だということです。
その時、恵果阿闍梨は、「法によって花をなげうつに、偶然として中台毘廬遮那如来に身上に着く阿闍梨讃じていわく 不可思議、不可思議なりと」と言ったとのことです。これは「請来目録」の中に書いてあります。
日本に帰国して、二〇年の留学生の約束を二年で帰ってきたので、九州福岡の観世音寺にて足止めをくらうのですが、空海さんは膨大な密教経典や法具などを受け、持ち帰りこれを朝廷に差し出す目録が「御請来目録」です。
司馬遼太郎さんは、「空海の風景」で、帰国のいきさつや法具などの費用について描写していますが、このへんも面白いですね。私は渡航費用を両親、一族が集めたもので、そのなかに叔父の阿刀大足もいたと推察しています。阿刀大足が政変に巻き込まれたとき、空海さんは生涯阿刀家を救うのです。
この「御請来目録」の最後に以下のように書いています。原文は難しいので訳文でご紹介します。
「およそ釈尊の教えは途方なくひろく、かぎりなくはてしないものです。一言でつくせば、ただ自利・利他の二つの利益があります。永遠の生命と、そこに生きるよろこびを願いもとめるのが自利です。そして人間苦と執着の迷いから救うのが利他です。むなしく自利を願っても、得ることはできません。いたずらに利他をはかっても、また容易ではありません。必ず福徳と智恵を兼ねて修行し、瞑想と智慧とを並べて修行してこそ、はじめて他の人の苦を救い、自らのさとりをうることができるのです。
ー中略ー
詩に、次のようにまとめたいと思います。
真理の教えに行くも帰るもない
人に随って真理の教えは去りまた来たる
(それはあたかも)宝が得にくいのに似ている
宝を得たときにさとりの心が開ける
半偈の真理の教えを聞くために身をすら投げて施す
どうしてこの珍しい財宝を論じないでいられよう
ひたすらつとめて経論を書写してきた
この土に請来した経緯も何と悠遠なことであったか
願わくは大いなるこの福徳をもって
国土が安泰で、万民が豊かで幸せになるように
一たびこの密教を開き、一たび見る人は
おしなべてことごとく煩悩から解脱するであろう
大同元年十月二十二日 入唐学法沙門空海 」
真保龍敞訳注「空海コレクション2」ちくま文庫
訳文がいいですね。ぜひ原文もよんでみてください。朝廷に上申したこの「御請来目録」に空海の想いがこめられていますね。ところであなたの守護仏が何であるか興味ある人は見てあげますのでご連絡ください。明日はそのこと(守護仏をかいた「御請来目録」のなかの経典)を書きましょう。
参考図書
「空海の風景」 司馬遼太郎著 中公文庫
「空海コレクション2」 宮坂宥勝監修 つくま文庫
「空海の本」 学研
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