小野田寛郎さんのご冥福を心よりお祈りし、追悼の意を表します。1月17日のニュースを聞いて、しばらく、小野田さんの人生を省み、ひとりひとりの人間の使命とは何かを考えていました。下記はスポニチの記事ですが、
『小野田寛郎さん死去…終戦知らず比ルバング島で30年過ごす
74年フィリピン・ルバング島で発見され、敬礼する元日本兵の小野田寛郎さん(共同) Photo By スポニチ |
太平洋戦争の終戦を知らずにフィリピン・ルバング島で30年間過ごした元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが死去したことが16日、分かった。91歳。和歌山県出身。
死因などは不明だが、小野田さんが設立した「小野田自然塾」(東京都中央区)関係者はスポニチ本紙の取材に「亡くなったという連絡を受けている」と明かした。近く、近親者のみで密葬を営むとみられる。
小野田さんは1942年に和歌山歩兵第61連隊に入隊。44年にルバング島に派遣され、情報員の任務を与えられた。
しかし、終戦を知らずジャングルに潜伏。51年に帰国した元日本兵の証言からその存在が判明したが、作戦解除命令がないことを理由に部下とともに山中にとどまっていた。74年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、山を下りて救出され帰国した。
帰国後の翌75年、ブラジルに移住。原野を開拓して牧場をつくった。
84年、ルバング島での経験を生かし、たくましい青少年育成のために「小野田自然塾」を開設。キャンプ生活を通して自然の大切さや、目的を持ってたくましく生きることなど人間の本質を教えていた。
近年は都内で暮らし、国内各地で精力的に講演を実施。ルバング島での体験を振り返り、「生き続けようという目標を持っていたことで、日本に帰ることができた」などと話していた。
◆小野田 寛郎(おのだ・ひろお)1922年(大11)3月19日、男5人、女2人の7人きょうだいの四男として和歌山県亀川村(現海南市)で生まれる。日本帰還後に移住したブラジルでは牧場で1800頭の肉牛を飼育していた。著書に「戦った 生きた ルバン島30年」(74年)。05年、藍綬褒章を受章。 』
死因などは不明だが、小野田さんが設立した「小野田自然塾」(東京都中央区)関係者はスポニチ本紙の取材に「亡くなったという連絡を受けている」と明かした。近く、近親者のみで密葬を営むとみられる。
小野田さんは1942年に和歌山歩兵第61連隊に入隊。44年にルバング島に派遣され、情報員の任務を与えられた。
しかし、終戦を知らずジャングルに潜伏。51年に帰国した元日本兵の証言からその存在が判明したが、作戦解除命令がないことを理由に部下とともに山中にとどまっていた。74年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、山を下りて救出され帰国した。
帰国後の翌75年、ブラジルに移住。原野を開拓して牧場をつくった。
84年、ルバング島での経験を生かし、たくましい青少年育成のために「小野田自然塾」を開設。キャンプ生活を通して自然の大切さや、目的を持ってたくましく生きることなど人間の本質を教えていた。
近年は都内で暮らし、国内各地で精力的に講演を実施。ルバング島での体験を振り返り、「生き続けようという目標を持っていたことで、日本に帰ることができた」などと話していた。
◆小野田 寛郎(おのだ・ひろお)1922年(大11)3月19日、男5人、女2人の7人きょうだいの四男として和歌山県亀川村(現海南市)で生まれる。日本帰還後に移住したブラジルでは牧場で1800頭の肉牛を飼育していた。著書に「戦った 生きた ルバン島30年」(74年)。05年、藍綬褒章を受章。 』
小野田さんは、どのような命令を受けていたのでしょうか。ウィペデイアによりますと、
「1994年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その8D長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている[1]。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)[2]。」
軍の命令を遂行したことに、その当時ほとんどの日本人が小野田さんの強靭な意志にびっくりしたのです。小野田さんが人間としての使命感をお持ちなったのは、金属バット事件があり、日本の子供たちの将来を憂い、小野田自然塾を創設したことではないでしょうか。
小野田自然塾
小野田自然塾の周辺には、子供達の遊び心を十分に満足させる環境が存分にあります。
経緯
この体験を通して、専用設備を備えた本拠地の設置と組織化が急務であると感じ、平成元年6月、財団法人設立に至る。(小野田自然塾のHPより)
ニュースで、ソチオリンピックを真近にして、自爆テロの画像が流れていましたが、残念でなりません。日本軍の命令はどうだったのでしょうか。国家による命令は私の言う使命感ではないのです。使命感とは、ひとりひとりの心の奥底から湧き出てくるものではないでしょうか。
人間として、正義感を持って、立派に生きて行ける力を身に着け、自然を大切にし、他人に優しく接し、他人のためにできることをしていく人生こそ素晴らしいと思うのです。いわゆる自利利他の精神ですね。自利とは自分を磨くこと、利他とは人のため、社会のために尽くすことです。
人間に託された使命は、この地球を守ること、つまりこの地球上の自然環境を守ることです。そしてこの自然環境のなかで、いのちを育んでいる生物たちを守ることでしょう。世界を平和にすることです。小野田さんが到達した使命感を大切にし、私達ひとりひとりが今できることは果たしていかなくてはなりません。
読者の皆さん、あなたが使命を見出し、その使命が達成されますように心よりお祈りします。南~無 合掌 徳温禅月
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