新年あけまして おめでとうございます。
初日の出に昇竜が現れています。大分県日田市吹上古墳前の吹上神社より
昨年末より、正確にいえば、Xmasにて「主の祈り」を捧げ、それから年末に地元の各地の神社仏閣にて参拝し、一年の無事を感謝し、お祈りしました。そして元旦、初日の出を見て、初詣をするのです。つまり私は典型的な日本人だと言えるのですが、自分でいうのもなんなのですが、かなり世界の宗教を勉強して来ました。
キリスト教徒でもイスラム教徒でも、自分達の宗教の押し付けではなく、お互い学び、理解し、認め合うことから出発し、全世界がこの危機的状況の中で、祈りを捧げなければ、世界平和も自然環境保護も人権擁護もできないのです。祈りを共にする時代が来たのです。
まず日本人は、キリスト教圏の人たちがどれだけ祈りに時間を割いているかを知らないし、その祈りの質と量も知らないと思います。イスラム教の人々のことはメディアで取り上げられるので、その熱心さは知っている方は多いと思います。
キリスト教の方は、クリスチャンと言って、日曜日に教会で礼拝しますが、そのほかにもさまざまな教会の催しがあり、祈りを捧げます。特に祈祷会というのがありますが、断食してお祈りすることもあります。基本は、神に感謝し、神の栄光を賛美するのです。また個人的な問題の解決のために祈りもします。アメリカに行くと、ゴスペルが流れ、絶叫的な祈りをします。すさまじいのです。
このような信仰を持ったアメリカと同盟国であり、友達であることを理解していないと本当の友情は保てないのです。先月、安倍首相が、靖国を参拝したことに異例のコメントをアメリカ政府がしましたが、それは日本の国家神道の復活を危惧するからです。宗教的な心情と政治的な行為で誤解をうまないように配慮しなければなりません。
ところで、日本人の宗教観をヘブライ大学におられた手島佑郎先生は自らのノートでこう書いています。
[ 日本人と神道 ] 手島佑郎
『察するに、首相の靖国神社参拝に反対の立場をとるのは、国民全体からすれば反対派は全体の20%にも満たない。公明党も表向きは反対を唱えているが、内心ではそれほど反対ではないようだ。国民の3分の2は首相の靖国参拝容認である。
というのは、日本人と神道とは切っても切り離せない関係である。なぜならば、日本人の宗教意識は神道によって育まれ、神道によって培われてきたからである。
今でこそ日本は仏教国家であるかのような観を呈しているが、日本人の生活習慣の根底にひそむ神道的要素は依然として強固である。例えばお盆とお正月。これは、仏教伝来以前の日本人の生活にずっと根差してきた祖先祭の慣習である。仏教による加持祈祷、これも神道のお祓いの仏教版である。結論から言えば、仏教は神道と習合することによって日本人の間に定着することに成功したのである。
それは、北欧人と北欧の神話伝説ぬきに北欧のキリスト教が成立せず、ローマ人とローマ宗教伝統を無視したローマ・カトリック教会が存在せず、西インド諸島住民とその宗教伝統を無視して同地域でのキリスト教布教があり得なかったのと同様である。
いずれにせよ、神道的価値観というものが、日本人の精神生活や生活習慣のなかに深く根を張っている。だから、キリスト教であれ、仏教であれ、いや無神論の共産主義であれ、日本人の生活に根差した伝統的でかつ無意識に行なわれている神道的習慣を頭から無視したのでは、日本人に新しい価値観を持ち込めない。』
吹上神社と観音堂が並んで建っています。廃仏毀釈を乗り越えました。
韓国の方の宗教は、キリスト教徒と仏教教徒が50%づつで、道徳的な基盤に儒教があると言われています。韓国の方は、熱心な信者さんが多いのです。中国は、儒教を取り入れた共産党教と言ったほうがいいかな。キリスト教も仏教も徹底的に弾圧されていますからね。
世界の歴史を見ると信仰無き民族は滅びていますが、日本も宗教なき民とか、信仰無き民と言いますか、無宗教と答える人が増えて行っていることは確かですね。外国で聴かれたとき、わからない人は「日本教」と答えるといいと思います。つまり手島先生が言われるように、日本人の精神の中には、神仏混淆の神道と仏教の思想が流れているからです。
では神道とはなにでしょうか。ウキペディアには
『神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。宗教名の多くは何教と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[1][2]。
神道には明確な教義や教典がなく[3][4]、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[3]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる[5]。
神道は、一時期は神仏習合などでその扱いが統合されていた。しかし明治時代、それ迄の武家社会からの転換で天皇を頂点とした社会を構築するにあたり、国民の精神的支柱としてその精神性や倫理性などが見直され、国家形態の一部として採用された。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌〔わらべうた〕『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の精神性や倫理性が見受けられる。
神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように、地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[1]。
神道は日本国内で約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、これは神社側の自己申告に基づく数字である。約85,000の神社が登録されている。』
それは、大自然のなかに存在する神であり、その神を敬うことが人として生きて行く基本だとしているからこそ、神(かんながら)の道というわけです。自然界の森羅万象のなかで神がおり、神のいのちが宿っているのです。神道のあるべき姿です。
すべて再生の命を得て、新しい一年を迎えることができるのです。自然界の木々を見ていると、冬は枯れ、春は新しい息吹で新芽をだし、花は咲き、夏は蒼蒼とした緑の葉を広げ、秋はその葉は紅く染めあがり、舞い散るのです。そうしてまた再生するのです。
ですから、除夜の鐘で、煩悩を消し去り、洗い清め、新しい年の日の出の太陽の光をあびて人間もまた生れ変わるのです。これが20年をひと単位とすると、生れて24か月は20年です。それから22歳、42歳、62歳、82歳、102歳までが人間の寿命です。この節目は気をつけなればなりません。この世の生命はそのように成り立っていると思いませんか。
そして還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、傘寿(さんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)として、還暦を過ぎると節目ごとにお祝いするのです。
日本人の深層意識のなかに流れる神道を元にした宗教観は、日本人の民族宗教であり、他国の方がとやかく言う問題ではないのです。世界宗教では唯一、仏教が融合しましたが、キリスト教やイスラム教と混淆することもないし、普及することもないと思われます。ましてや宗教の優劣をつけるべきではないのです。次回は日本仏教について考察してみたいと思います。
平成26年(2014年)が皆様にとって、良き年でありますように、そして皆様ひとりひとりが健康でありますようにお祈りします。合掌 徳温禅月。
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