おはようございます。
今日は、すこしお固いお話をしたいと思います。ニュースを見ていたとき、知り合いから意見を求められました。それは、朝鮮総連ビルを、鹿児島の最福寺の池口恵観法主が落札したことですが、果たして宗教家がすることかなと思い、すぐにあれは元の持ち主に貸すと思うよと即座に答えましたが、その通りのようですね。つまり最初からそうだったということです。
イエスキリストも釈迦牟尼仏陀も、政治にかかわるなと言いました。もっと言えば俗世にかかわるなということかもしれません。つまり、宗教による救済は、こころの救済であり、魂の救済であり、宇宙の根源にもとづいたものです。
現実、政治のことに宗教が立ち入ってくると、いびつなものになることは歴史が物語っています。逆に政治家が、自分の信じる宗教をもち、国民のために、現世利益をすることは何ら問題はないでしょう。
それは、政治家であれ、経営者であれ、名もなき庶民であれ、宗教をもち、その根源に、毎日祈ることは、人間として大切なことです。その清き姿勢から、良い政治、良い事業ができるのです。
日本の宗教史的にみれば、奈良仏教や平安仏教は、時の支配者によって、庇護されてきたものですから、政治と密接につながっていたことは事実です。皆さんが京都や奈良で、参詣する寺院はほとんどが今でいえば国立です。しいていえば国民のものですね。
その風穴を開けたのが、法然、親鸞、日蓮、道元、一遍などの鎌倉仏教なのです。戦乱の世のなかで、民衆の魂の救済を、それぞれが仏教の根幹から、いのちをかけ、主張し、行動していったのです。鎌倉仏教の旗手たちは、ほとんどが、時の権力者から追放処断されます。自分から都を離れたのは禅宗の道元だけでした。政治的な圧力はあったと思いますが。
つまり宗教は、その目的から乖離してはならず、国民の魂の救済のためのものであるという、よって立つ考えを持つべきではないでしょうか。
政治家と癒着したり、その結果として政治的な行動(今回、池口氏は政治的な行動と取られても仕方ないと思います。)をとるべきではないのです。
私は、宗教や信仰は、ひとりひとり個人が、人生を一所懸命に生き、働き、自分の中に持つべきもので、宗教団体に入るものでもないし、寺院に帰属するものではないと思っています。
毎朝、起きて、座禅し、お経を供え、祈ることが、宗教の行為であり、信仰ではないでしょうか。教会や寺院に行って祈ることが、信仰ではないのです。日々の生活の中にこそ、信仰はあるのです。それは教会や寺院を否定しているのではなく、ともに祈る場としての必要性はあるのです。しかし壮大な寺院を立てる必要はないでしょう。
今回のことは、いろいろ波紋をよび、結果的には、関係者が窮地に立たされ、戦後日本人の宗教離れや嫌悪感がましてくるかもしれませんね。
ところで日田市の大原八幡宮がありますが、元の大原八幡宮は、元大原宮として、求来里町にあります。(町名がいいでしょ。神仏を求めに来る里と読めますね。)
元大原宮(咸宜園の廣瀬淡窓先生も塾生とたびたび訪れて漢詩を作ったようです。)
ふるさとに、名も知れずたたずむ、神社やお地蔵さんに手を合わせると、こころが癒されます。それが自然な宗教心であり、信仰ではないでしょうか。東日本大震災そして北部九州大水害で亡くなられた方々のご冥福をこころよりお祈りします。合掌。
標語 「気をつけよう、しつこい勧誘と、布施(献金)強要」 「ちかづくな、怪しげな宗教家」
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