2013年7月31日水曜日

「空海の風景」を読むⅡ

 おはようございます。
司馬遼太郎さんの作品の魅力は、その場面の光景や人物像を読んでいて、読者が想像できるところではないでしょうか。空海の生れた讃岐の地をどのように表現しているのでしょうか。

「 空海がいまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地がそうだともいわれているが、出産のとき海浜に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない。
 空海の誕生の地は、いまの善通寺の境内である。
善通寺には五岳山という山号がある。そのまわりに五つの山が茸のようにそれぞれ峰をつき立ててちょうど屏風をたてめぐらしたような景状をなしているためにその名がある。いまの地理的に風景ではうそのようだが、空海のころは海がいまの善通寺のあたりまできており、その五つの山のじかに入り江にのぞんでいた。そのかたちをとって、このあたりは屏風ヶ浦とよばれたらしい。空海はその屏風ヶ浦でうまれた。瀬戸内海をゆく白帆も、館の前の砂浜からみた。
 摂津の難波ノ津を発した丹塗りの遣唐使船が内海を西へ奔走してゆく姿も、おおぜいの里人とともに浜に立って見たであろう。しかも重大なことに、空海の幼少期に一度この華やかな船団が屏風ヶ浦の沖を通りすぎているのである。かれが数えて四歳のときで、・・・・・。」ー「空海の風景(上)」よりー

風景が浮かんできますよね。父佐伯善道、母玉依姫の三男として774年6月15日に生を受けたのです。(密教八祖の一人である不空の入滅日にあたる。)玉依姫の愛を一身に受け、温暖な、海と山に囲まれた風光明媚なところで、のびのび育てられたと思います。しかし、兄二人は幼くしてなくしているので、その場にいたのか、母から聞いたかは定かでありませんが、生命のはかなさも感じたことでしょう。名を真魚と名付けれて、すくすく育ち、読み書きののみ込みが早く、利発であったため、両親から「貴物」と呼ばれ、慈愛の限りを尽くされ、大切に育てられたのです。

讃岐の地にもこのような山河があったのでしょう。  
 
数々の伝説がありますが、司馬遼太郎さんは「空海の風景」のなかでは書いていないので、意味があるのでしょう。15歳までこの讃岐の地でのびのび、学び、遊び、過ごしてきたのですが、ただ、いわゆる信仰心は幼少のころからあったそうです。私は、母である玉依姫が教えたと思います。母は空海が高野山に金剛峰寺を開創したおり、出家を願うのですが、女人禁制の地であるため、空海は母のために麓に庵をつくり、母に会いに行ったそうです。母と子の愛は今も昔も変わりませんね。

15歳になると、都にでて、母方の叔父にあたる阿刀大足(伊予親王の侍講、当代きっての学者)のもとで、論語などの儒教の手ほどきをうけ、18歳で当時ひとつしかない大学の明経科に入学するのであります。明経科は、今でいう法学部ですね。

どれくらい勉強したのでしょうか。空海の24歳の著作「三教指帰」に、「雪の明かりや蛍の光で書物読んだ古人の努力を思い、まだ怠っている自分を鞭打ち」学問に励んだと書いています。ところが、将来を約束されている身でありながら、退学するのである。

空海は悩んだと思う、今の人でいえば高校生から大学生の多感な時期であり、今の学生みたいに遊びほうけているものではないからです。かれは儒学を学べば、学ぶほどそれが人を救うことができるのかと悩んだであろうし、当時の都には、仏教や道教など唐から最先端の哲学や思想が入ってはいたのです。たぶんいろんな人にもであったのでしょう。愛する両親の期待を裏切ってまで、大学をやめるべきか悩み、迷ったと思います。
東京大学の赤門
 
ところで東大がすばらしいとは全然おもいませんが、東大にはいる人のIQはどのくらいと思いますか。ただ普通のIQではとても通らないのです。普通の人が問題を解くのに1時間かかるとすると10分くらいで解いていくのです。おそらく空海は、高いIQと人一番努力する青年だったと思います。

「空海の風景」には、司馬さん流に少年時代を描いていますのでぜひ読んでください。さて明日のブログは大学を中退した真魚が空海になっていく青年時代に何をしたのかを書きたいと思います。

参考図書
「空海の風景」 司馬遼太郎著 中公文庫
「空海入門」 加藤精一著 角川文庫
「図解雑学 空海」 頼富本宏監修 ナツメ社
「空海の本」 「真言密教の本」 学研



0 件のコメント:

コメントを投稿