おはようございます。
淡窓先生は、門下生一人ひとりの意思や個性を尊重する教育理念のもとに、中国の古典である「詩経」「書経」「易経」「礼教」「春秋」「楽経」などや漢詩を教授して、情操教育もして行ったのです。そして、遠思楼にて自らの思索と瞑想をしたと伝えられています。
咸宜園内「遠思楼」
それでは淡窓先生の思想とはなんだったのでしょうか。儒学、老荘思想に通じ、中道であり、「敬天の思想」を持っていたのです。この敬天思想は、明の時代の袁了凡が「陰隲録」で書きあらわしたものです。この「陰隲録」を読み自らの敬天思想を確立していったのです。実は、淡窓先生の敬天思想が、西郷隆盛の「敬天愛人」につながり、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏の哲学に脈々とつながっているのです。
淡窓先生の門下生に、三絶僧(詩・書・画に秀でている)といわれた平野五岳がおり、西郷隆盛と交流があり、西郷の肖像画も描いているのです。そして稲盛和夫氏は西郷の「敬天愛人」を京セラの企業理念に取り入れているのです。
この流れの根幹になる袁了凡の「陰隲録」について、稲盛和夫氏は自らの著書である「稲盛和夫の哲学」のなかで以下のように書いていますのでご紹介します。
「袁了凡はもともとは名前を袁学海といい、代々医術を家業とする家に生まれました。父を早く亡くしたため、母の手で育てられ、彼の母は息子に医者を継がせようと医学を学ばせていたところ、ある日頬髭の立派な老人が訪ねてきて、こう言いました。
『私は雲南で理法(易)をきわめた者です。袁学海という少年に理法を教えるようにという天命が下ったのでやってきました。お母さんはこの子を医者にしようとお考えかもしれませんが、彼は科挙の試験に通り、立派な役人になります。県で受ける一次試験には何番で通ります。二次試験、三次試験にも何番で受かります。そして科挙の本試験に臨む前に役人になり、若くして地方長官に任じられます。結婚はしますが、子供さんはできません。そして五十三歳で亡くなる運命です』
学海少年は実際に医者の学問をやめ、役人の道へ進みます。すると、恐ろしいぐらいに老人がいったとおりになっていく。何番で試験に受かるというのもそのとおりなら、地方長官になるのもそのとおりでした。すべてが老人が予言したとおりでした。その後南京の国立大学に進学することになった袁了凡は、雲谷禅師という素晴らしい老師がいる禅寺を訪ね、相対して三日間、座禅を組みました。
『お若いのに一点の曇りも邪念もない素晴らしい座禅を組まれる。これほど素晴らしい座禅を組む若い人をみたこともない。一体どこで修行をなされたのかな』
雲谷禅師が感心して言いました。これに対して、袁了凡は子供のころに出会った老人のことを話しました。
『私の今日までの人生はその老人の言葉と一分の狂いもありませんでした。すべて老人がいったとおりです。子供もできませんし、おそらく五十三歳で死ぬでしょう。だから思い悩むことは何もないのです』
その話を聞いた雲谷禅師は一喝しました。『悟りを開いた素晴らしい男かと思ったら、そんな大馬鹿者だったとは』そして、老人があなたの運命をいったというが、運命は変えられないものではないと言って、善きことをすればよい結果が生まれ、悪いことをすればわるい結果が生まれるという『因果応報の法則』を説きました。
そういわれた袁了凡は、『自分は間違っていた。老師にいわれたように、今後は善きことをしていこう』と誓い、善きことすればプラス一点、悪いことをすればマイナス一点というように、点数をつけ、日々善きことを重ねるよう努めました。その後子供も生まれ、七十三歳まで生きながらえました。」
実は、廣瀬淡窓先生は、体が虚弱で、そう長生きしないのでは思われましたが、この袁了凡の「陰隲録」を読んで、「万善簿」をつけ、天を敬い、天地自然の法則である因果応報の法則のとおり、日々反省し、私欲を克服し、善行を積み重ね、一万善を十二年七か月で達成し、七十五歳まで長生きし、活躍したのです。まさに「敬天の道」を歩む求道者であったのです。
この敬天の思想が、敬天愛人として、稲盛和夫氏によって現代に蘇り、企業経営に活かされていることを感謝するばかりです。咸宜園及び淡窓先生については、友人の深町浩一郎氏が西日本新聞社より西日本人物誌「広瀬淡窓」を出しているので読んでいただきたく思います。
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