おはようございます。
昨日、唐臼祭で買った小鹿田焼の丼鉢で、みそラーメンを作り食べましたが、違うね。スーパーのお惣菜を買ってきて、そのままチンして食べる人がいますが、せめて器に入れかえて食したいものです。今日は柳宗悦さんについて書きますが、正直あまり知りませんでした。
学研から出ている「浄土の本」のなかで、柳宗悦氏(1889~1961)を「美学的見地から、他力思想や妙好人を研究・紹介した民藝運動推進者」と書いていました。著書の中から「民藝となにか」「美の国と民藝」「雑器の美」「日本民芸館について」「京都の朝市」を読んでみました。
小鹿田焼の唐臼です。これで土を細かく砕いて、パウダー状にします。
「美の国と民藝」から
「ちょうど科学者が少しでも、この世を真理に近づけたいと仕事に勤しむように、私は生きている間に少しでもこの世を美しくしてゆきたいと念じている者です。宗教家の身になれば、どうかして神の国をこの世に具現化したいと希うでしょう。同じように私は美の国をこの世に具現化したいばかりにさまざまなことを考えて具現化しようとしているのです。」
「三つの明らかな事実を見逃すことはできなかったのです。
第一 今まで多くの人々から信頼を受けた貴族品には、真に美しいものはかえって少ないという事実。
第二 これに反して今まで無視されてきた民藝品には、美しい品が豊富にあるという真理。
第三 貴族品の中で美しいものは、大概は素材や手法が未だ単純であった古作品が多く、したがってそれ等のものは民藝品を美しくしていると同一の法則の許で美しくなっていること。」
小鹿田焼の粘土です。きれいですね。食べられそうですね
「雑器の美」から
「無学ではあり貧しくはあるけれども彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ、何を信じるかをさせ、充分に言ひ現せない。併しその素朴な言葉の中に驚くべき彼の体験が閃いている。手には之として持ち物はない。だが信仰の真髄だけは握り得ているのだ。彼が捕えずとも神が彼に握らせている。それゆえ彼には動かない力がある。」
柳宗悦氏は、雑器は民衆であり、雑器こそ美があり、民衆にこそ信仰があると言っているのであります。生活の中に信仰がり、信仰が生活そのものかもしれません。彼が信仰者に、いわゆる妙好人をみるのは、そのとおりであります。
唐臼祭での「蹴ろくろ」体験です。子供達がこのような体験を通して雑器の大切さを知ることができます。
妙好人とは、親鸞などの他力思想を、日々の念仏を通して、生活のなかで具現化した人達であり、印旛の源左や石見の大工さん浅原才市などであり、現在でも浄土真宗の信者さんのなかにもおられると思います。
「ご恩うれしや」 浅原才一作(石見の才市顕彰会出版)より
「じりきおもいは おもいがおもい
たりきおもいは おもわぬおもい
あみだ あみだが わしにきて
さいちゅ(才市を) たすける なむあみだぶつ」
「わしが阿弥陀になるじゃない
阿弥陀の方からわしになる
なむあみだぶつ」
この詩集を読んでいると、信仰の深さと、仏になりきっている姿が見えます。念仏もまた生活における菩薩行だと思う次第です。
藝術を一部の特権階級から民衆のものへ取り戻した民藝運動といわれるものは、鎌倉仏教を起こした法然・親鸞・一遍や日蓮そして道元などが仏教を貴族仏教から民衆を救う大乗仏教に取り戻した宗教改革に匹敵するものと思います。伝統仏教界もそろそろ葬式仏教から脱しないと、民衆の魂がよからぬ新興宗教に囚われてしまいます。
小鹿田ののぼり釜です。
器のつくりては、祈りのこめて、粘土をこね、ろくろを回しているとおもいます。、江戸時代の曹洞宗の鈴木正三の「日用徳目」の勤勉の思想につながるものであり、私が提唱している働き方の原点であります。
柳宗悦の言葉を借りれば「無心な嬰児の心に 一物をも有たざる心に、智を誇らざる者に、言葉を慎む者に、清貧を喜ぶ者たちの中に 神が宿るとは如何に不思議な真理であろう。同じ教えがそれ等の器にも活き活き読まれるではないか」と言うことです。
この言葉に魂をうちふるわせた人が棟方志功さんなのです。柳宗悦の「美の法門」という講演を聞いて、抱き合って号泣したそうです。念仏信仰の信者となり、仏教世界を前人未到の美の境地にまで昇華したのです。
みんなで、小鹿田唐臼祭にてお目当てをえらぶ。
私は今、終活支援をさせていただいていますが、市井の人々の人生、そのものがひとつひとつの藝術だと思います。無駄な人生など全くないのです。この世に不公平があり、貧富の差があったとしても、金がすべてはないと思います。ちょっとミニバブルになったら、ロレックスの時計を買い漁る懲りない人達もいますが。
いまこそ真の幸福や、豊かさ、そして生き方と働き方を考えるべきではないでしょうか。秋には東京駒場の日本民藝館に行ってみたい気分になってきました。
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