2013年11月21日木曜日

仏道を歩くⅥ~己に克つとは~

 おはようございます。
毎日の日課である松原泰道先生の「きょうの杖言葉 一日一言 百歳の人生の師から あなたへ」(海竜社)を読んでいまして、今日の一言の「我人に勝つ道を知らず 我を克つ道を知れり」に心がひかれました。剣道指南役で、沢庵和尚から禅を学んだ柳生宗矩の言葉です。

私たち現代人は、小学校の時から、いや幼稚園からかもしれませんね、いつも人と比較され、優劣をつけられ、そうして、中学、高校、大学を出て、社会人になると、社会はまさに競争社会です。そのなかで、人の勝つこと、他社に勝つことばかりを考えて仕事をしているのです。

そうして自分が勝っているときは躁ですが、他人に負けると鬱状態におちいり、挙句の果てに重度の鬱病になり、再起不能になる人もおられます。それはいつも他人と比較し、他人と競争する社会に生きているからです。

しかし、そのような社会の中でも、他人に勝ちたいという我にとらわれることなく、自分のエゴを超越できる人もおられます。それは利己ではなく、「利他」に生きることです。そして実はあえて敵といえば、自分自身で、他人に勝ちたい、他人より高く評価されたい、と思う心です。

そのような利己的な心、煩悩まみれの心、怠け心、自分勝手な心に打克つ方法は、ひとつしかないのです。己を見つめる、己を知ることで、それは「座禅」によって、見出すことができるのです。道元禅師がなぜ「只管打座」を言い、中村天風先生が「安定打座」を言ったのかを覚れば、自ずと座禅は生活の一部と化し、食事をするがごとくになるのです。

わたしは、親鸞さんの「南無阿弥陀仏」と言う念仏行も、日蓮さんの「南無妙法蓮華経」のお題目行もしかりだと思っています。それらはすべて、生きとし生けるもの、衆生が仏性を持ち、利他のこころに目覚めることができるからです。

松原泰道先生は、同書で、「自分の内部に居を占めるエゴに克つ道を学びえた人にして真の達人です。剣道に限らず、どの道でも最終の目的は「克己」です。己に克つのは術ではなく強い意志の力によるものです。自制心の弱い現代人の学ぶべき点です。」と締めくくっていました。

もうすこしお話しますと、キリスト教では「心の中の王座を、神にあけ渡せ」と言います。つまり、我を取り除き、神にいてもらうと言うことですが、自分の意思で、そのようにすることは、自力とか他力とか、言葉の遊びではなく、実体として意識することなのです。

少なくとも現代の宗教関係者は、自らが選んだ宗祖の、つまり釈尊の、キリストの、親鸞の、日蓮の、道元の歩んだ道を歩み、その苦悩を共有して、初めてその実務につくべきで、ただ資格試験に通った宗教関係者を私は信用しないことにしています。

己に克つとは、活かされていることに感謝し、少しでも、小さくても人のために、社会のためにお役に立つように生きることではないでしょうか。読者の皆様のご健勝をこころより祈りつつ・・・合掌 徳温禅月。



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