2013年11月27日水曜日

「清貧の思想」を読むⅠ~恥ずべき慳貪なる奴等~

 おはようございます。
先般、中野孝次先生の「清貧の思想」「清福の思想」へと書きましたので、中野先生に申し訳ないと思いながら、皆さんの意見を聞いていると、現代人はとても貧困に耐えきれないし、現実的には非正規雇用などで若者たちも貧困にあえいでいる実情をみると、経済的に「貧しい」というのも悲劇を招くことがあるのです。

しかし中野先生が提起した「清貧の思想」はそのような意味の貧困ではなく、心の貧困と言いますか、日本人の中に蔓延している精神的な貧困を20年前に提起し、本来日本人が持っていた「清貧」という確かに生活は貧しいが、そのなかですがすがしく生きる人たちをクローズアップしているのです。現代人に問いかけている問題をいまだからこそ無視しては、心豊かな生涯をおくれないと思い、「清貧の思想」を皆様と読み返し、人生の指針を提言したく思いました。


「清貧の思想」の一節から三節は、本阿弥家に貫く考え方を書いていますが、本阿弥光悦は、欲望を支配しうるほどの精神の優位性を持っていて、それはその母、妙秀によって教えられ育てられたからだと思います。

本阿弥妙秀は、「何よりの慳貪(けんどん)にして富裕なることを嫌ったという」と書いていますが、慳貪とは「欲深くしていつくしみの心がないこと、むごいこと、貪欲なこととあり、つまり自分さえよければ他人のことはどうでもいいという者のことだ。」

今問題になっているあの医療法人一族とそれからお金を借りた?というどこかの国の都知事など、現代も変わらず、このような慳貪なるものが跋扈しているのです。ああ情けない。以前、有名な経営コンサルタントの先生が、この「清貧の思想」など通用しないと言ったことを覚えていますが、それは、人間としてどう生きるかを提起していることを無視した発言だと思っていました。

妙秀は「本阿弥行状記」で、
「一、身の貧なる事には苦しからず、富貴なる人はけんどんにて有徳に成りつるやらんと心もとなし。
二、金銀など持ち参る嫁を尋ねるはふがいなし、禍の基なり。
三、金銀を宝と好むべからず。
四、夫婦の仲互いに大切ならば、いかほど貧しくともたんぬべし。」

と書いているそうですが、現代人に当てはめると、これとは真逆に生きている人がいかに多いことでしょう。宝石やブランド品やと買い漁り、精神は空っぽな人が多いのも現実ではないでしょうか。しかし日本人の多くの方は、決して富裕ではないが、豊かな精神性を持っているのです。

最期に中野先生は、「・・・現代だってこういう「目に見えない存在」を畏れ、みずから省みて恥じる行為はしないという己のうちなる律を持った人がいくらもいることを、わたしは知っている。日本人の全部が全部、取引の成功とか、金儲けとか、金額と数字以外に尺度を持たぬ人間であるわけがないのである。後者ばかりが日本人の典型のように見られているとしたら、あまりにも心外だ。だからわたしはあえて光悦や妙秀を例に、そういう人間のいることを強調して来たのである。」

読者の皆さん、再度、「清貧の思想」(草思社)を読んでみませんか。読みごたえがありますよ。「清貧」を理解した人は「清福」な人生を送ることができるのです。それでは皆様のご健康を祈りつつ・・・合掌 徳温禅月。



0 件のコメント:

コメントを投稿