2013年10月15日火曜日

民陶の里、小石原から小鹿田へ

 おはようございます。
運動会が各地ではじまると、駆け足で秋がやって来そうですね。でも残暑が残る連休でした。12日から14日にかけて、朝倉市東峰村では、秋の小石原焼民陶むら祭り、日田市小野では、小鹿田焼民陶祭が開催されていたので、足を運びました。

福岡からでしたら、杷木インターを降りて、バスセンターを通り過ぎて、すぐに左に入りると約15分で東峰村につきます。小石原への道沿いに各窯元さんがありますので、いくつか観てまわるのが楽しみですね。

小石原焼(こいしわらやき)は福岡県朝倉郡東峰村にて焼かれる陶器。主に生活雑器が焼かれる。1682年に、黒田光之伊万里から陶工を招いて窯場を開いたのが始まりで、筑豊地方で最初の焼き物産地となった。高取焼の開祖、八山の孫、八郎も当地に移り住んで開窯した。刷毛目、飛び鉋、櫛描きなどによって表現される独特の幾何学的な文様が特色で、素焼きを行わず、釉薬を流し掛ける。後にその技法は大分県日田市小鹿田焼に伝わっており、小鹿田焼とは姉妹関係にある。日本の陶芸界に大きく影響を与えたバーナード・リーチによって、「用の美の極致である」と大きく称賛された。小石原には窯元が56軒ある。(ウキペディアより)

今回は、小石原焼と小鹿焼の源流である高取焼宗家を観に行きました。静かな佇まいでまさに静山の名にふさわしいところです。


邸内にて、
この色合いに、すがたに、絶句します。
 
作品が展示されていますが、手に取って観ると、ひとつひとつに表情があるのです。
 
八山の額ですが、現在は13代目です。
 
次代を背負う息子さんにご挨拶し、小鹿田に向かいます。登ってきた道を東へ日田方面に向かいます。大鶴という町にでて、左にはいると鶴ヶ内があります。ここから山越えをします。民藝運動を主導した柳宗悦先生が小石原から歩いて通った道(約20キロ)を車を走らせました。里山の風景もいいですよ。
 
小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年宝永2年)若しくは、1737年元文2年)に、幕府直轄領(天領)であった日田の代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、福岡県小石原から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と、彼を招いた日田郡大鶴村の黒木十兵衛によって始められた。元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという[1]。このため、小鹿田焼の技法には小石原焼と共通するものがある。
朝鮮系登り窯で、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様を特徴とする。トビカンナ(飛鉋)は、時代の修式窯飛白文壺との類似が見られる。また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられ、原料によってセイジ(緑)、アメ(飴)、クロ(黒)が主である。
陶土を搗くための臼は「唐臼(からうす)」と呼ばれるもので、ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いている。その音は「日本の音風景100選」の一つにも選ばれている。
民芸運動を提唱した柳宗悦1931年昭和6年)にこの地を訪れ、「日田の皿山」と題して評価する内容の一文を発表したこと、さらに、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。(ウィペデアより)

小鹿田焼の民陶祭も盛況でした。



唐臼の音が聞こえて来そうでしょう。

多彩ですよね。

透き通る清流、戯れる子供たち、紅葉の秋がもうすぐ小鹿田の里にもやって来ます。

民陶祭のときに行くと、たくさん買い物ができますね。陶器をじっくり見たいなら、平日がいいですよね。今度、小鹿田から小石原まで歩いて、柳宗悦先生がどんな思いで風景をみたか、あじあたいと思いました。

読者諸氏もぜひ、民陶の里、小石原と小鹿田にお越しください。では皆さまのご健勝を祈りつつ・・・合掌 徳温禅月。












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